- 御伽衆(おとぎしゅう)とは、天下人や大名のそばに仕えて話し相手をつとめた人びとです。昔の合戦の話や世の中の出来事を語り、主君の知恵袋やなぐさめ役になりました
- 秀吉は多くの御伽衆を抱えましたが、その顔ぶれには、かつての主家の跡取り・織田信雄や、信長に背いた荒木村重、守護家の名門・山名禅高や斯波義銀など、もとは秀吉より身分の高い人や、敵だった人が並んでいました
- 信雄は小田原攻めのあと国替えを断って改易され、下野の烏山へ流されたのち、許されて「常真」と名のり、秀吉の御伽衆になりました
- 名家の人びとをそばに置くことは、秀吉の権威を飾るとともに、かつての主筋や敵を手元で見張るという意味もあったと考えられます
御伽衆とは、主君の話し相手をつとめる側近のことです。秀吉のまわりには、もとは秀吉の主筋や敵だった人、名門の守護家の出の人が多く集まりました。北関東の烏山へ流された信長の次男・織田信雄が、数年後には秀吉の話し相手になっていた、と聞くと驚く人も多いでしょう。この記事では、秀吉の御伽衆の顔ぶれと、秀吉がなぜ彼らをそばに置いたのかを紹介します(織田信雄とは)。
■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
御伽衆とは何をする人か
御伽衆の「御伽」は、夜の話し相手、退屈をなぐさめる相手という意味です。合戦の思い出、諸国のうわさ、古い家の故実などを語り、主君の相談にものりました。戦国時代の大名も御伽衆を置きましたが、とくに多くを抱えたのが秀吉で、その数は数十人にのぼったといわれます。百姓の出から天下人になった秀吉にとって、名家の作法や昔の出来事に通じた人びとの話は、教養を補う意味もありました(松井友閑とは)。
秀吉の御伽衆のおもな顔ぶれ
史料に名前が見える人びとのうち、よく知られた人を表にまとめます。
| 名前 | もとの立場 | 御伽衆になるまで |
|---|---|---|
| 織田常真(信雄) | 信長の次男。尾張・伊勢の大名 | 国替えを断って改易。烏山に流されたのち許される |
| 荒木道薫(村重) | 摂津の大名。信長に背いた | 有岡城を脱出し、本能寺の変のあと堺で茶人として暮らす |
| 山名禅高(豊国) | 因幡・但馬の守護家・山名氏 | 鳥取城を家臣に追われ、秀吉に降る |
| 津川義近(斯波義銀) | 尾張の守護家・斯波氏 | 信長に尾張を追われ、のちに秀吉に仕える |
| 大村由己 | 播磨の学者 | 秀吉の伝記『天正記』を書き、聚楽第行幸の記録も残す |
織田信雄 ─ 烏山へ流された主筋の殿さま
天正18年(1590)、小田原攻めのあと、秀吉は信雄に家康の旧領である三河・遠江・駿河などへの国替えを命じました。信雄は先祖ゆかりの尾張を離れることを拒み、秀吉の怒りを買って改易されます。信雄は下野の烏山へ流され、その後も各地に移されたと伝わります(烏山城跡)。
許されたのは朝鮮出兵のころで、家康のとりなしがあったともいわれます。信雄は出家して「常真」と名のり、秀吉の御伽衆となりました。かつて秀吉が仕えた信長の息子が、秀吉の話し相手になったのです。信雄はのちに大名に返り咲き、その家は江戸時代も続きました(織田信雄は本当に無能だったのか)。
荒木村重 ─ 「道薫」となった裏切り者
荒木村重は、摂津一国を任された信長の重臣でしたが、天正6年(1578)に信長に背き、有岡城に籠城しました。村重は城を脱出して生きのびますが、城に残された一族や家臣は、信長によって厳しく処罰されました(織田信長に反旗を翻した荒木村重の結末とは?)。
本能寺の変のあと、村重は堺に戻り、茶人「道薫」として暮らします。茶の湯に通じた村重は、利休とも交わり、秀吉の御伽衆に加えられました。天正14年(1586)、堺で52歳で亡くなっています。信長に背いた男を、信長の後を継いだ秀吉がそばに置いたことになります。
秀吉はなぜ、かつての主筋や敵をそばに置いたのか
山名や斯波は室町時代に守護を務めた名門で、信雄は主君だった信長の息子です。そうした人びとが秀吉の話し相手として仕える姿は、だれの目にも、秀吉が古い家々の上に立ったことを示しました。また、勢力を失ったとはいえ、名門の人びとを各地に残しておけば、反秀吉の旗印に担がれるおそれもあります。手元に置いて手厚く遇することは、彼らを守ることでもあり、見張ることでもあったのでしょう(秀吉はなぜ関白になったのか)。
よくある質問
Q. 御伽衆とは何ですか?
A. 主君のそばに仕えて話し相手をつとめた人びとです。昔の合戦の話や世の中の出来事を語りました。
Q. 秀吉の御伽衆にはだれがいましたか?
A. 織田信雄(常真)、荒木村重(道薫)、山名禅高、津川義近(斯波義銀)、大村由己などが知られます。
Q. 織田信雄はなぜ御伽衆になったのですか?
A. 国替えを断って改易されたあと許され、出家して常真と名のって秀吉に仕えました。
Q. 荒木村重は秀吉に仕えたのですか?
A. 本能寺の変のあと、茶人「道薫」として秀吉の御伽衆に加えられました。
まとめ
秀吉の御伽衆には、信長の次男・織田信雄、信長に背いた荒木村重、守護家の名門の山名禅高や斯波義銀など、もとは秀吉の主筋や敵だった人びとが並びました。彼らは話し相手として秀吉をなぐさめる一方で、天下人が古い家々の上に立ったことを示す存在でもありました。烏山へ流された信雄が、数年後には秀吉の話し相手になっていた。その姿に、戦国から天下統一へと移り変わる時代の空気がよくあらわれています。
参考:桑田忠親『大名と御伽衆』/谷口克広『信長の天下布武への道』吉川弘文館/天野忠幸『荒木村重』戎光祥出版

