豊臣秀長は、兄・秀吉の家来として織田家に入ったのか。それとも、織田信長に直接仕える家臣(直臣)だったのか。大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時代考証をつとめる黒田基樹氏と柴裕之氏は、ともに「信長の直臣だった」とみています。ただし根拠は名前と『信長公記』の名簿からの推論で、秀長を直臣と明記した同時代の文書はありません。そして、ネットで広がっている「信長の馬廻だった」「兄とは無関係に信長にスカウトされた」は、研究者の文章の読み違いです。
- 秀長の実名はもともと「長秀」。その「長」は信長から与えられた一字(偏諱)とみられる
- 天正二年(1574)の長島攻めで、『信長公記』の信長本隊の名簿に「木下小一郎」の名がある。秀吉の名はこの戦いに見えない
- 黒田氏の原文で「馬廻」と呼ばれているのは同じ名簿の浅井新八で、秀長ではない
- 黒田氏自身は「秀吉の誘いをうけて信長の家臣になった」と書いている。入口は兄経由
- 和田裕弘氏は「信長の直臣か」と問いの形で扱っており、研究者の間でも確定事項ではない
秀長は、はじめから兄の家来だったのか
これまでの一般的な理解では、秀長は兄に呼ばれて織田家に入り、兄の家臣団のなかで働いた人物とされてきました。信長から見れば家臣の家臣、つまり陪臣です。秀長の生涯をたどる記事でも、長浜時代の秀長は「兄の留守を預かる弟」として語られることが多く、豊臣秀長とは:大和大納言の生涯でも、兄を支える補佐役としての姿を中心に紹介しています。
これに対して近年、秀長は兄の家来ではなく、信長に直接仕える立場にあったのではないか、という見方が有力になっています。黒田基樹氏・柴裕之氏という、いまの秀長研究を代表する二人がこの立場をとり、国学院大学北海道短期大学部の堀越祐一氏も同じ趣旨のコラムを公開しています。どこまでが史料で確かめられ、どこからが推論なのか。順に見ていきます。出世の道筋そのものは豊臣秀長はどう出世したのかにまとめています。
「長秀」という名前が、議論の出発点になっている

長浜城本丸跡の碑(滋賀県長浜市)。秀長が「木下小一郎長秀」と名乗っていたころ、兄はここを拠点に北近江を治めた
秀長の実名(諱)は、もともと「長秀」でした。これは一次史料で確かめられます。「秀長」の名が史料に現れるのは天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦いのころからです。改名の経緯は豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのかで詳しく扱っています。
「長秀」と署名した文書は、全国でおよそ二十点が残るとされます(養父市歴史文化財課・谷本進氏)。いちばん古いものの一つが、近江国伊香郡黒田郷の惣百姓中にあてた書状で、署名は「木下小一郎長秀」。八月十六日付で年号はありませんが、「木下」姓を名のっていることから天正元年(1573)のものと考えられています(長浜市)。天正三年十一月十一日付の書状からは「羽柴」姓に変わりますが、実名はまだ「長秀」のままです。天正八年六月二十五日付で但馬八鹿の弥兵衛に出した鮎漁の免許状(養父市所蔵)は、本文を右筆が書き、「長秀」の署名と花押だけが自筆だといいます。
問題は、この「長」の字がどこから来たのかです。信長の家臣には、丹羽長秀をはじめ「長」を上に置く実名が多く見られます。二字の名では、主君からもらった一字を上に置くのが通例でした。そして秀長は、本能寺の変の二年後に、兄の「秀」を上へ戻す形で名を改めています。こうした状況から、「長」は信長から与えられた偏諱とみられ、偏諱をもらったのなら秀長は信長と直接の主従関係にあったはずだ、というのが直臣説の骨組みです。
ただし、信長が秀長に一字を与えたと記した史料はありません。長浜市の公式解説は「信長と秀吉から一字ずつとった」という別の説明も併せて紹介しています。偏諱説は状況証拠としては強いものの、証明されたわけではない、という点は押さえておきたいところです。
天正二年、長島 ── 秀吉のいない戦場に、弟の名がある

蓮生寺(三重県桑名市長島町)の山門。長島城の大手門を移したものと伝わる
もう一つの根拠が『信長公記』です。巻七、天正二年(1574)七月十三日の記事は、第三次の長島一向一揆攻めを伝えています。信長の本隊が進んだ中筋・早尾口の武将の名簿に、浅井新八・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・不破光治・佐々成政・前田利家・河尻秀隆らと並んで「木下小一郎」の名があります。舞台となった長島城は、木曽川と長良川の中州にあった一向一揆の拠点でした。
これが『信長公記』に秀長が登場する最初の場面です。そして、この戦いに秀吉の名は見えません。兄の軍勢の一部として参陣したのなら、名簿には兄の名が載るはずです。兄のいない戦場で、弟が信長本隊の武将たちと同じ名簿に並んでいる。直臣説は、この点を重く見ています。
ネットで広がっている「馬廻だった」は、どこから生まれたのか
ここからが本題です。この説が紹介されるとき、ネットでは「秀長は信長の馬廻(親衛隊)だった」という形で広がっています。しかし、元になった黒田氏の文章を読むと、そうは書かれていません。兄弟の若いころの記録がほとんど無いぶん、少しの読み違いが大きな話になりやすい時期でもあります。
黒田基樹は、実は「秀吉の誘いで信長に仕えた」と書いている
もう一つよく見かけるのが、「秀長は兄とは関係なく、信長に直接スカウトされた」という話です。これも黒田氏の説明とは違います。黒田氏は、秀長は秀吉の誘いをうけて信長の家臣になったと考えられる、と書いています。さらに、最初は秀吉から所領を与えられ、そのうえで信長からも所領を与えられて直臣になった、という段階を踏んだ理解を示しています。
つまり、織田家への入口はあくまで兄です。兄に呼ばれて織田家の世界に入り、やがて信長からも直接所領をもらう立場になった。直臣説は「兄と無関係だった」という話ではなく、「兄の家来のままではなかった」という話なのです。田を耕していた小一郎を兄が連れ出したという話の史料上の扱いは、豊臣秀長はどう出世したのかで触れています。
「単独で先陣をつとめた」も、史料はそこまで言っていない
この説に便乗する形で、ほかにも出典のはっきりしない話が一緒に広がっています。
- 墨俣一夜城で、秀長が予算を計算し川並衆をまとめて築城をやりとげた ── 『武功夜話』に由来する話で、同時代の史料には見えません。詳しくは川並衆とは何者だったのかへ
- 金ヶ崎の退き口で、秀長が撤退ルートを組み立てた ── 出典が確認できません。この撤退戦については蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代でも扱っています
- 家康がもっとも恐れ、敬意を払っていたのが秀長だった ── 俗説で、それを示す史料はありません
与力という言葉は、同時代の史料に出てくるのか
直臣説では、秀長は信長の直臣でありながら、信長の命で兄の指揮下に付けられた、と説明されることがあります。こうした立場を「与力」と呼ぶ解説もあります。与力は、主君から別の武将の配下に付けられた武士のことで、秀長の家臣団を考えるときにも出てくる言葉です(豊臣秀長の家臣団とは)。
ただ、秀長を「与力」と呼んだ同時代の史料は、いまのところ確認できていません。これは研究者が関係を整理するために使っている分析上の言葉と考えたほうがよさそうです。ネットでは「秀吉の監視も兼ねて与力にされた」という話まで見かけますが、これには出典がありません。
研究者も一枚岩ではない ── 和田裕弘は問いの形で立てている
直臣説は有力になりつつありますが、定説と言える段階ではありません。織田家臣団や『信長公記』の研究で知られる和田裕弘氏は、中公新書の『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』の第一章「謎の前半生」に「『小一郎長秀』の謎」という節を置き、「信長の直臣か」と問いの形でこの論点を扱っています。
時代考証の二人が支持していることは重い事実ですが、織田権力の専門家が確定した事項としては扱っていない、ということもまた事実です。一般の人物事典や解説の多くは、まだ従来の理解のまま書かれています。改名の理由をめぐる諸説は「長秀」から「秀長」への改名の記事で整理しています。
では、秀長が自分の家臣を持てたのはいつからか
直臣だったかどうかと並んで気になるのが、秀長がいつから自分の家臣を抱えていたのかです。よく知られるのは藤堂高虎で、天正四年(1576)に三百石で秀長に仕えたとされます。津市教育委員会の年譜が採用し、黒田氏もこれに従っていますが、出どころは藤堂家が江戸時代にまとめた家譜で、同時代の史料ではありません。長浜時代の秀長は、北近江の伊香郡の支配を任され、築城や領国の実務を担っていました。
本格的に家臣団をつくったのは、天正十三年(1585)に大和・紀伊・和泉を与えられてからです。この年の配分は天正十三年の論功行賞で扱っています。黒田氏は秀長の家臣を三つに分けて整理しています。
羽田正親のように、大和で重く用いられた家臣もいます。長浜で国を治める実務を覚えた秀長が、百万石の大名として家臣を束ねるまでには、十年あまりの時間がありました。
通説と新説は、何がどう違うのか
| 論点 | 通説(陪臣説) | 新説(直臣説) |
|---|---|---|
| 主君 | 兄・秀吉 | 織田信長 |
| 織田家への入口 | 兄に呼ばれて | 兄の誘いで(ここは同じ) |
| 「長秀」の「長」 | 特に重視しない | 信長からの偏諱とみる |
| 天正二年の長島攻め | 兄の軍勢の一員として参陣 | 信長本隊の一員として参陣 |
| 確実さ | 明確な裏づけ史料はない | 状況証拠は強いが、明記した史料はない |
どちらの説でも、兄に導かれて織田家に入ったという点は変わりません。違うのは、その後の秀長が「兄の家来」のままだったのか、「信長の家臣」として兄の軍団に加わっていたのか、という立場の理解です。大和を任されてからの秀長の仕事ぶりは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかで紹介しています。
ドラマではこう描かれています
ドラマのこの時期の放送回は、豊臣兄弟!第18〜21回 史実解説で史実を解説しています。
まとめ
秀長を信長の直臣とみる説は、時代考証の研究者が支持する本物の学説です。根拠は「長秀」という名前と、秀吉のいない長島攻めの名簿に弟の名があること。ただし直臣と明記した文書はなく、研究者のなかにも問いとして扱う人がいます。一方で、「馬廻だった」「兄と無関係にスカウトされた」「単独で先陣として活躍した」は、元の研究が言っていない話です。秀長の生涯全体は豊臣秀長とはから、正室の慶については慶(ちか)とはからどうぞ。
参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』平凡社新書
- 黒田基樹『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長』講談社現代新書
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
- 柴裕之『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』角川選書
- 柴裕之編『豊臣秀長』戎光祥出版(シリーズ・織豊大名の研究)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』中公新書
- 堀越祐一「通字と偏諱と秀長の実名」「織田家中における秀長の立場」国学院大学北海道短期大学部
- 長浜市「戦国を攻略せよ」豊臣秀長
- 津市教育委員会 藤堂高虎 略年譜
- 『信長公記』巻七

