川並衆(かわなみしゅう)とは、木曽川の流れを生業の場にしていた尾張・美濃国境の土豪たちを指す呼び名です。ただしこの言葉が出てくるのは『武功夜話』という一書だけで、同時代の史料には見えません。そこから大名にまで昇ったのは蜂須賀家政・前野長康・青山宗勝の三家、旗本として明治まで続いたのが坪内家、蜂須賀家の客分として淡路を預かったのが稲田家でした。
川並衆とは、何をしていた集団なのか
木曽川は、尾張と美濃の国境を分けながら濃尾平野を横切り、伊勢湾へ注ぎます。上流の木曽谷で伐り出された材木は筏に組まれて流され、川沿いの湊で船に積み替えられて下流へ運ばれました。米も塩も、人も、この川を通ります。
川並衆と呼ばれる人々は、この流れの現場を押さえていたとされます。筏を操る者、川船を持つ者、渡しを差配する者、人夫を集められる者。武士というより、川の仕事で食べていた在地の有力者たちの寄り合い、という理解です。
彼らが歴史の表舞台に出てくるのは、織田信長が美濃へ攻め込む時期でした。川を渡る、対岸に砦を築く、資材を運ぶ。どれも川を知っている者がいなければ成り立ちません。木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉がこの人脈を使ったとされるのは、そういう文脈です。蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代で触れた木曽川の土豪たちが、まさにこの人々にあたります。

川を下ってきた材木を引き上げ、柵と櫓を組み上げる。川並衆と呼ばれた人々の仕事はこういうものだったと伝えられます(イメージイラスト)
「川並衆」という言葉は、どの史料に出てくるのか
ここから先は、慎重に読む必要があります。
「川並衆」という語そのものは、『信長公記』にも、信長や秀吉の書状にも出てきません。確認できるのは『武功夜話(ぶこうやわ)』という書物だけです。つまりこの集団の名前は、一冊の本に由来しています。
名前が一冊にしかないからといって、そういう人々がいなかったことにはなりません。木曽川の水運も、川沿いの土豪も、実在しました。ただ「川並衆という組織があった」と断定できる史料はない、ということです。蜂須賀正勝(小六)を「川並衆の頭領」と呼ぶ説明も、出どころは同じ一冊です。
『武功夜話』はどこまで信じられるのか
穏当な位置づけは「戦国時代の一次史料としては使えないが、江戸時代に成立した書物としての価値は議論の余地がある」あたりでしょう。史学者の三鬼清一郎は、偽書ではなく固有の史料的価値を持つ作品として扱うべきだと述べています。
墨俣一夜城にしても、『信長公記』は洲股の要害を修築させたとだけ書き、一夜で築いたとは書いていません。この点は豊臣兄弟!第1〜8回 史実解説でも整理しました。江南市や大垣市の公式の解説にも川並衆や一夜城の話は載りますが、それは伝承の紹介であって、一次史料の裏づけとは別のものです。

岐阜県大垣市の墨俣一夜城。天守閣風の建物は後世に建てられた歴史資料館で、当時の砦の姿ではありません
顔ぶれとして挙げられる名前
- 蜂須賀小六正勝 ── 尾張海東郡蜂須賀郷の土豪
- 前野小右衛門(のちの将右衛門・長康) ── 出自に諸説あり
- 坪内利定 ── 尾張葉栗郡松倉城主
- 坪内惣兵衛為定
- 青山新七/青山宗勝
- 稲田大炊助
- 松原内匠、三輪吉高、梶田直繁
- 日比野六太夫、加治田隼人佐、長江半丞
このうち、のちの史料で事績を追えるのは蜂須賀・前野・坪内・青山・稲田までです。松原内匠、日比野六太夫、梶田直繁、長江半丞といった名前は、この一覧の外にほとんど出てきません。名前は伝わっても、何をしたかがわからない人たちです。前野長康(将右衛門)のように後半生を追える人物のほうが、むしろ例外でした。
なお青山新七と青山宗勝を同一人物とする整理と、別人として並記する整理の両方があります。ここは断定できません。
一斉に秀吉に召し抱えられたのか
「川並衆が一斉に秀吉に仕えた」という一文は、物語としてはわかりやすいのですが、史実として主張するには無理があります。少なくとも四人の身の振り方が、時期も相手もそろっていません。正勝が信長の家臣になるまでの経緯をたどると、彼自身が何度も主を替えていることがわかります。
実際に起きたのは、一斉の登用ではなく、それぞれが別の入口から豊臣政権や徳川政権にたどり着いた、ということでしょう。
大名になれたのは、誰と誰か
蜂須賀家。正勝は播磨龍野五万三千石を与えられ、天正十三年の四国攻めののちに阿波一国を打診されますが、これを辞退しました。受けたのは子の家政で、阿波十八万石の大名となり、徳島城を築きます。正勝がなぜ阿波を息子に譲ったのかは、この記事でいちばん解釈の割れるところです。天正十三年の論功行賞の全体像もあわせてどうぞ。
前野家。長康は播磨三木から但馬出石へ五万三千石で移り、のちに十一万石まで加増されました。しかし文禄四年、豊臣秀次事件に連座して切腹し、家は改易されます。
青山家。宗勝は越前丸岡四万六千石。関ヶ原で西軍についたため改易されました。
つまり大名になれたのは三家、そのうち二家が改易されています。生き残ったのは蜂須賀家だけでした。
青山宗勝 ── 丸岡四万六千石から、阿波へ戻った男
父の正直は、蜂須賀家の家老・稲田氏に仕えていたとされます。宗勝自身は丹羽長秀に属し、山崎・賤ヶ岳と戦って功を立てました。天正十三年閏八月、主家の内紛を機に丹羽家を離れて秀吉の家臣となり、やがて越前丸岡城主四万六千石にまで昇ります。
ところが慶長五年、子の忠元とともに西軍について北国口を守り、戦後に改易されました。すべてを失った宗勝が身を寄せた先が、阿波の蜂須賀家です。父が稲田氏に仕えていた縁でした。元和四年十二月、阿波で亡くなっています。
木曽川のほとりから出て、越前で城主になり、最後は蜂須賀家の庇護のもとで生を終える。川並衆と呼ばれた人々のなかで、もっとも大きく上がり、もっとも大きく落ちた一人でした。
坪内利定 ── 大名にならず、旗本として残った家
尾張葉栗郡松倉城主。信長に仕え、信長の死後は秀吉と折り合わず、小牧・長久手では森長可と池田恒興の中入りに加わる側にいました。秀吉の天下では、明らかに冷遇された側です。
ところが天正十八年、徳川家康に召し出されます。関ヶ原のあとは美濃羽栗郡・各務郡の二十村、六千五百石。大名ではありませんが、大身旗本として版籍奉還まで家が続きました。
大名になった二家が改易され、大名にならなかった家が幕末まで残る。どちらが得だったのかは、簡単には言えません。
稲田家は、家臣だったのか同輩だったのか
稲田植元は天文十四年の生まれ。父は尾張岩倉城主・織田信安の家臣、稲田大炊助貞祐です。天文二十二年に父が切腹し、九歳の植元は父の朋友だった蜂須賀正勝に預けられました。のちに二人は義兄弟の契りを結んだと伝えられます。
ただし正勝は植元より十九歳年上で、植元は孤児として預けられた身です。対等の同輩というより、庇護する側とされる側から始まった関係と見るのが自然でしょう。義兄弟という言い方は、あとから整えられた形式だったのかもしれません。
それでも稲田家は、阿波では「単なる家老ではなく客分であった」と言われる立場に立ちます。この微妙な地位が、二百数十年のちに火を噴くことになります。
稲田家のその後 ── 洲本城代から、北海道静内へ
天正十三年、蜂須賀家の阿波入国にともない、植元は一万石で美馬郡脇城の城番となりました。脇では城を改修し、楽市・楽座を行って地子銭や諸役を免除しています。大坂夏の陣の功で四千石を加増され、一万四千石。
寛永八年、子の示稙の代に淡路洲本城代となり、以後は代々「九郎兵衛」を名乗って淡路を預かりました。一万四千石という石高は、小さな大名に匹敵します。
問題が噴き出したのは幕末でした。明治二年の禄制改革で、稲田家の当主は士族とされたのに、その家臣たちは陪臣であるという理由で卒族に落とされます。稲田側は淡路の分藩独立を求め、これに徳島藩の本家が激発しました。明治三年五月十三日の早朝、蜂須賀の家臣ら約八百人が洲本の稲田邸と学問所を襲撃。自決二名、即死十五名のほか多数の死傷者が出ます。庚午事変です。
処分は稲田側にも下りました。同年十月、稲田邦植以下に北海道静内郡への移住開拓が申し渡され、翌年、一族と家臣団は日高国静内へ渡ります。淡路島が徳島県ではなく兵庫県に属しているのは、この事件が尾を引いたためとされます。武士の身分をめぐる同じ種類のねじれは土佐藩の上士と下士にもありました。
生駒屋敷とは何だったのか
尾張国丹羽郡小折、現在の愛知県江南市小折町。ここに生駒家の屋敷がありました。小折城とも呼ばれます。
生駒家は武士の家というより、商いの家です。江南市の説明によれば、油や灰を扱い、馬借業を営んでいました。馬借は物と情報を同時に運びます。初代の家広が大和国生駒郷から小折へ移ったのは文明年間とされ、そこから尾張で地歩を築きました。屋敷は東西三百七十メートル、南北五百四十メートルに及んだと伝えられます。
生駒家長は、はじめ犬山城主・織田信清の配下でしたが、妹が信長の側室になったことで父とともに信長の馬廻となりました。元亀元年四月の越前攻めでは身を挺して信長を守り、負傷しています。
秀吉や蜂須賀正勝、前野長康がこの屋敷に出入りしていたという話は、やはり『武功夜話』に由来します。江南市の生駒屋敷の解説そのものには、秀吉や蜂須賀の名前は出てきません。
「吉乃」という名は、いつ生まれたのか
享年も三十九とも二十九とも伝わり、「信長より四歳年下」という伝承と合いません。永禄九年五月十三日に亡くなり、久昌寺に葬られたことは伝わっています。信長は香華料として六百六十石を寄進しました。
この女性の子として確実な織田信雄が、のちに織田家の主流となったことは、伝承がふくらむ土壌にもなったはずです。
生駒家と蜂須賀家は、親戚だったのか
これは、あります。ただし世代がひとつ下です。
生駒家長の妹・慈光院が、蜂須賀家政に嫁いでいます。その子孫は徳島藩の中老家として続きました。つまり縁戚関係は、正勝の代ではなく家政の代に結ばれたものです。
なお「家長の娘が家政の妻」と書かれている説明も流通していますが、妹とする記述と食い違います。どちらが正しいかは断定できません。正勝自身の妻は三輪五郎左衛門吉高の娘とも、益田太郎右衛門持正の娘とも伝えられ、生駒家ではありませんでした。
戦国期の小折で、生駒・蜂須賀・前野が縁戚のネットワークを組んでいた、というイメージは『武功夜話』の描く世界です。正勝を演じた高橋努が語った人物像も、こうした伝承の厚みの上に立っています。
木曽川の水運は、いつからたどれるのか
川並衆という組織の実在を疑うとしても、木曽川の水運そのものは実在します。
木曽川中流の兼山湊(岐阜県可児市兼山)は室町末期には機能しており、永禄十一年、信長の上洛にあたって木曽谷の建築資材をここから船積みした記録が残ります。これは川並衆の物語とは別に、史料で確認できる事実です。前野長康や正勝が動いた舞台には、こうした湊が実際にありました。
下流の笠松湊(岐阜県羽島郡笠松町)や、美濃路の起渡船場(愛知県一宮市起)が栄えるのは江戸時代です。起では将軍や朝鮮通信使の通行時に、船を二百七十艘以上並べて船橋を架けました。
ただし、これらの湊の賑わいを戦国時代にそのまま遡らせる史料はありません。材木を筏に組んで流す木曽の運材法にしても、詳細が記録に残るのは江戸後期からです。「川で生きる人々がいた」ことは確かでも、その姿を戦国期の解像度で描くことは、史料の上ではできません。

犬山城の天守から見下ろした木曽川。この流れが、尾張と美濃を分けながら人と物を運びました
ゆかりの地をたどる
- 生駒屋敷跡(小折城跡)── 愛知県江南市小折町。生駒氏邸址碑が立つ
- 久昌寺 ── 江南市田代町。生駒家歴代の墓は市の指定史跡。伽藍は解体され跡地の整備が進んでいるため、訪ねる前に現況の確認を
- 前野家屋敷跡 ── 江南市前野町。『武功夜話』が発見されたとされる地
- 蜂須賀城跡・蓮華寺 ── 愛知県あま市蜂須賀。正勝と家政の菩提寺で、正勝の碑が立つ
- 墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)── 岐阜県大垣市墨俣町
- 兼山湊跡 ── 岐阜県可児市兼山。信長の上洛時に資材を積んだ湊
- 起渡船場跡 ── 愛知県一宮市起。美濃路が木曽川を渡った地点
- 岩倉城跡 ── 愛知県岩倉市。稲田貞祐が仕えた織田信安の城
- 出石城・有子山城 ── 兵庫県豊岡市出石町。前野長康が城主を務めた
- 洲本城跡 ── 兵庫県洲本市。稲田家が城代を務め、庚午事変の舞台となった
- 新ひだか町静内 ── 北海道。稲田家臣団が移り住んだ土地
尾張の小さな川辺から、但馬へ、越前へ、阿波へ、淡路へ、そして北海道へ。この散らばり方そのものが、彼らの歩んだ距離を語っています。
まとめ
川並衆という言葉は一冊の書物に由来し、その書物の成立年代は決着していません。けれども、木曽川で働く人々がいて、そこから身を起こした者がいたこと自体は動きません。
大名になれたのは蜂須賀・前野・青山の三家。うち二家は改易されました。大名にならなかった坪内家は旗本として明治まで残り、家臣でも同輩でもあった稲田家は淡路を預かり、最後は北海道へ渡ります。
出発点は同じ川のほとりでも、行き着いた先はまるで違いました。蜂須賀正勝(小六)とは、蜂須賀正勝と前野将右衛門の結末はどこで分かれたのか、蜂須賀正勝はいつまで出るのかもあわせてどうぞ。
※本記事で『武功夜話』由来と記した事項は、同書の成立年代をめぐる議論が続いているため、確定した史実としては扱っていません。

