- 宇陀松山城(奈良県宇陀市)は、南北朝時代に秋山氏が築いた「秋山城」がはじまりの山城で、国の史跡・続日本100名城です
- 秀長が大和に入ると、伊藤義之・加藤光泰・羽田正親・多賀秀種と、豊臣方の武将が次々に城主を務めました
- 関ヶ原のあと福島高晴が入って城と城下町を整えましたが、大坂の陣のあとに改易され、城は小堀遠州らの手で壊されました
- 発掘調査で、山頂の本丸まわりが総石垣だったことや、本丸御殿の跡が見つかっています
- ふもとには、城下町の入口だった松山西口関門(黒門)と、古い町並みがいまも残ります
宇陀松山城は、奈良盆地の東南、宇陀の山あいにある山城です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で平埜生成さんが演じる羽田正親が城主を務めた城で、秀長の大和支配のなかでは、伊勢へ抜ける道をおさえる東の守りでした。豊臣の城として石垣で固められながら、豊臣家が滅んだ年に、徹底的に壊されます。その破却を担ったのが、秀長の家臣・小堀正次の子である小堀遠州でした。秀長の家中とゆかりの深いこの城の歩みと、いま訪ねるときの回り方を紹介します。
秋山城から宇陀松山城へ ── 城のはじまり
城のはじまりは、南北朝時代(14世紀なかごろ)に、宇陀に勢力をもった秋山氏が築いた山城です。秋山氏は伊勢の国司・北畠氏の配下にあった国衆で、城も「秋山城」と呼ばれていました。いまも登城道の道標には「秋山城跡」と書かれています。城は標高約473メートルの山の上にあり、南には吉野・大峰の山並み、北には額井岳を望むことができます。宇陀は大和と伊勢を結ぶ道の途中にあたり、山に囲まれた盆地を押さえるのにちょうどよい場所でした。

秀長の大和入りと、入れ替わる城主たち
天正13年(1585)、秀長が大和・紀伊・和泉を与えられて郡山城に入ると、秋山氏は宇陀を去り、城は豊臣方の拠点に変わります。ここから城主はめまぐるしく入れ替わりました。まず伊藤義之、ついで加藤光泰が入り、天正16年(1588)には、小泉城から移ってきた羽田正親が城主となります。加藤光泰はのちに甲斐を与えられ、甲府城の築城にかかわった武将です。秀長の本拠だった郡山城については 大和郡山城 で紹介しています。
羽田正親は、秀長のもとで和歌山城の普請奉行も務めた重臣でした。けれども秀長が亡くなり、跡を継いだ秀保も文禄4年(1595)に急死すると、正親は秀次事件に巻き込まれて命を落とします。そのあと城に入ったのが多賀秀種でした。羽田正親の生涯は 羽田正親とは で、主家を失った秀長の家臣たちがどう分かれていったのかは 羽田正親のその後 と 豊臣秀長の家臣団とは で取り上げています。
福島高晴の改修と「松山」の名
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、宇陀に入ったのは福島正則の弟・福島高晴でした。高晴は城を大きく手直しし、あわせてふもとの城下町を整えます。城の名を「松山城」と改めたのも高晴だとされますが、その時期にはいくつかの説があります。豊臣の時代から福島の時代にかけて、山の上の城は石垣で固められた近世の城へと姿を変えていきました。
城下町の西の入口に立つ松山西口関門も、発掘調査から16世紀の終わりから17世紀のはじめごろに建てられたと考えられていて、高晴による城下町づくりの時期と重なります。黒く塗られていたことから「黒門」とも呼ばれ、城下町に残るただ一つの当時の建物として、昭和6年に国の史跡に指定されました。
小堀遠州が壊した城 ── 元和元年の城割り
慶長20年(元和元年、1615)、大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、高晴は豊臣方に内通した疑いをかけられて改易されます。持ち主を失った城は、幕府の命で徹底的に壊されました。この城割りにあたったのが、秀長の家臣・小堀正次の子で、のちに茶人・作庭家として名を残す小堀遠州(政一)らです。平成9年には、城割りを進めていた遠州の自筆の書状が見つかっていて、そこには人夫が足りないので何とかならないか、という内容が書かれていました。石垣を崩し、建物を取り払う作業が、かなりの人手を必要とする大仕事だったことがうかがえます。
父の正次は秀長の検地奉行として大和の田を測り、子の遠州は、秀長の家臣が守った大和の城を壊す役目を担ったことになります。小堀家のその後は 小堀家の家系 で、小堀父子が手を入れたもう一つの「松山城」は 備中松山城 で紹介しています。

織田家の陣屋と、残った城下町
城が壊されたあと、大坂の陣の功で宇陀郡などを与えられたのが、信長の次男・織田信雄でした。信雄の家は宇陀松山藩として四代にわたって続きますが、城はもう山の上にはなく、藩の政治はふもとの陣屋で行われました。城下町と武家地を分けていた春日門の跡には、東西二つの石垣の櫓台が残り、発掘調査では、いま見える石垣が織田家の時代の17世紀後半に積み直されたものだと分かっています。信雄という人物については 織田信雄は本当に無能だったのか をご覧ください。

元禄7年(1694)、四代の織田信武が家中の争いのなかで自害する「宇陀崩れ」が起こり、翌年、織田家は丹波の柏原へ移されました。そのあと宇陀は幕府の直轄地となります。城主はいなくなりましたが、城下町は薬や吉野葛などを扱う商人の町として栄え、江戸時代後期から昭和のはじめにかけての町家が並ぶ町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。
駐車場と所要時間
車で訪ねる場合は、城下町の北にある道の駅「宇陀路大宇陀」の駐車場を使うのが便利です。電車の場合は、近鉄大阪線の榛原駅からバスで約20分、「大宇陀」で降ります。城下町から山頂の本丸までは、どちらのルートでも歩いて25分前後です。山頂の城跡だけなら1時間ほど、城下町の松山西口関門や町並みも歩くなら、2時間ほどみておくとゆっくり回れます。
続日本100名城のスタンプは、城下町の「宇陀市松山地区まちかどラボ」(午前9時〜午後5時、12月29日〜1月4日は休み)と、道の駅「宇陀路大宇陀」に置かれています。時間や置き場所は変わることがあるので、出かける前に宇陀市の公式ホームページで確かめてください。
見学順 ── 黒門から城下町を抜けて、春日神社から山頂へ
おすすめは、ふもとの城下町から順に登っていく回り方です。まず城下町の西の入口にあたる松山西口関門(黒門)をくぐり、そこから東へ続く大手筋を歩くと、正面に春日門跡があらわれます。春日門の石垣を見たら、その先の春日神社の脇から山道に入り、山頂を目指します。春日神社からの道は舗装されていない山道なので、歩きやすい靴で出かけましょう。もう一つの、まちかどラボの裏手から登る道を使えば、登りと下りで別の道を歩くこともできます。

山頂では、本丸と天守郭のあたりに、崩された石垣や曲輪の跡が残っています。天守台のあたりからは、晴れていれば南に吉野・大峰の山々が見渡せます。城割りで壊されたとはいえ、石垣の残り方を見ていくと、ここが豊臣の時代に石で固められた城だったことが実感できるはずです。城の用語に迷ったら 城の基本用語 も参考にしてください。
よくある疑問
Q. 宇陀松山城の読み方は?
A. 「うだまつやまじょう」と読みます。古くは「秋山城(あきやまじょう)」と呼ばれていました。
Q. 宇陀松山城の城主は誰ですか?
A. はじめは秋山氏の城で、秀長の時代には伊藤義之・加藤光泰・羽田正親・多賀秀種、関ヶ原のあとは福島高晴が城主を務めました。
Q. 宇陀松山城は、なぜ壊されたのですか?
A. 城主の福島高晴が、大坂夏の陣で豊臣方に内通した疑いをかけられて改易されたためです。元和元年(1615)、小堀遠州らの手で城割りが行われました。
Q. 伊予や備中の松山城とは別の城ですか?
A. 別の城です。奈良県宇陀市の城で、区別するために「宇陀松山城」と呼ばれています。
まとめ
宇陀松山城は、秋山氏の山城から、秀長の大和入りを機に豊臣方の城となり、羽田正親ら秀長の家臣が守った城です。関ヶ原のあと福島高晴が城と城下町を整えましたが、豊臣家が滅んだ年に高晴は改易され、城は小堀遠州らの手で壊されました。いまは山頂の石垣と曲輪、ふもとの春日門跡と松山西口関門、そして江戸から続く町並みが、その歩みを伝えています。『豊臣兄弟!』で秀長の家臣たちの姿を見たあとに訪ねると、山の上の石垣がまた違って見えてくるはずです。大和の国づくりについては 第37回「秀長の国」の史実 と 第38回「和を以て、大和をなす」あらすじ予想と史実 にまとめています。

