第37回で蜂須賀正勝(小六)は阿波一国を辞退し、隠居しました。これで出番が終わるのかというと、そうではありません。演じている高橋努さんがNHK『ニュースーン』のインタビューで、これからは回想などの形で登場することになる、と話しています。あわせて、あの宴の場面が台本どおりではなかったという裏話も出てきました。
- 恩賞を辞退して隠居した場面は、史実ではどこにあたるのか
- 台本になかったという宴の場面はどう生まれたのか
- これから正勝はどんな形で出てくるのか
- 史実では、いつ亡くなるのか
登場は第七回から ── 川の上で十回以上
正勝が画面に出てきたのは第七回からでした。そこから隠居まで、三十回以上にわたって出続けたことになります。ひとつの役としては相当に長い出番です。
撮影の話も出ていました。川並衆として川の上で動く場面は、十回以上撮り直したそうです。ドローンとタイミングが合わなかったのだといいます。空から狙う絵と、水の上で動く人の呼吸を合わせるのに手間がかかったということでしょう。
殺陣(たて)についても語っていました。ドローンもカメラも意識しない、というのです。どこから撮られているかを気にせず、目の前のやり取りだけに集中する。撮り直しが重なったのは、そのぶん空の側が合わせにいっていたということでもあります。
その川の場面には、笑い話もありました。秀吉に蹴られて長康が川へ落ちる。ここまではいいのですが、まったく関係のない甚助まで、なぜか秀吉に川へ落とされているのだそうです。高橋さんは、そこが本当におもしろかった、と話していました。斬り合いの最中に笑いそうになった、とも。
恩賞を辞退し、隠居した場面
四国攻めが終わったあとの論功行賞で、正勝は阿波一国を提示されながら受けませんでした。かわりに子の家政に譲り、自分は隠居の身になります。天正十三年のことです。
この場面での台詞が印象に残った方も多いはずです。正勝は「この正勝、謹んでお断りいたします」と言って、阿波一国を返しました。断るという行為を、これ以上ないほど礼を尽くした言い方で口にしています。
史料に残る理由は「すでに齢六十にして隠居の身」という一行です。なぜ自分で受けなかったのかは蜂須賀正勝(小六)の武功と最期に詳しくまとめました。断ったのではなく、家をつなぐために先に渡した、という読み方ができます。
台本になかったという、宴の場面
正勝は秀吉に対し、後進に道を譲って隠居させてほしいと申し出ます。そのあと、四人が集まる場面が置かれました。正勝、秀吉、秀長、そして前野将右衛門。尾張にいたころから一緒だった顔ぶれです。そこで正勝は、いまが引き際だと語ります。
印象に残る台詞が二つありました。ひとつが「ただの川並衆だったわしが、まさか大名にまでなるとはのう」。もうひとつが「おぬしらに人生をかけて、本当によかった。礼を言う」。木曽川の川並衆から始まった三十年が、この二行に畳み込まれています。
この場面について高橋さんが話していたのが、もともとはこの四人だけの場面だったということです。ところが役者陣から「あの場面をやりたい」という声が上がり、人が集まって、いまの形になったのだといいます。長く同じ組で撮ってきた人たちが、区切りの場面に自分から寄ってきた形です。
長く同じ組で撮ってきた人たちが、区切りの場面に自分から集まった。織田家に仕えていたころから数えると、劇中の年月はおよそ三十年にわたります。その積み重ねが、台本の外側で場面をひとつ増やした形です。
これからも出てくる ── 回想という形で
・これからは回想などの形で登場することになる
・役者人生のなかで、これほど長い期間ひとつの役を演じることはそうない
・いまもまだ、役から抜けきれない部分がある
・男として、人としての生き方を学んだような感覚がある
つまり隠居は退場ではありません。第37回「秀長の国」で一区切りついたあとも、場面の中に呼び戻される役どころとして残ります。第38回「和を以て、大和をなす」以降の見どころのひとつです。
十キロ落とした ── 役づくりのこと
そもそもの入り口からして、この人の役だったようです。オファーを受けたとき「きた」と思った、と高橋さんは話していました。蜂須賀正勝は絶対に自分の役だと、前から思っていたのだそうです。主演の二人との年齢差もちょうどよい、とも話していました。
これは史実とも噛み合います。正勝は大永六年の生まれで、秀長より十四ほど、秀吉より十ほど年長でした。若い兄弟を後ろから支える兄貴分という位置が、そのまま年齢に出ています。
高橋さんは、この役のために体重を十キロ落としたと語っていました。死に向かっていく人物を演じるためです。
言われてみれば、放送で見る正勝の顔は、高橋さん本人の印象とかなり違います。番組内でも、本人と顔が全然違うと驚かれていました。天正十四年五月に世を去るまでの一年をどう見せるか、そこから逆算した体づくりだったことになります。
役づくりは体だけではありませんでした。高橋さんは正勝の墓を訪ねてもいるそうです。減量し、墓に参り、区切りの場面では役者仲間と一緒に場面をつくった。役の内側から生きたという言い方が、そのまま当てはまります。
正勝がどこで何をした人なのかを知ったうえで見ると、画面に映る一つひとつの所作の意味が変わってきます。
- オファーを受けたとき「きた」と思った。蜂須賀正勝は絶対に自分の役だと思っていた
- 主演の二人との年齢差もちょうどよかった
- この役のために十キロ減量した。死にゆく人物を演じるため
- 正勝の墓を訪ねた
- これからは回想などの形で登場することになる
- 役者人生のなかで、これほど長くひとつの役を演じることはそうない
- いまもまだ、役から抜けきれない部分がある
- 男として、人としての生き方を学んだような感覚がある
- 結果を残して次の仕事をいただいていく。その繰り返しが役者と似ている
- 『クローズZERO』
- 大河ドラマ『天地人』
- 大河ドラマ『西郷どん』
- 大河ドラマ『どうする家康』
- 連続テレビ小説『虎に翼』
並べてみると時代物が目立ちます。大河ドラマは今回で四作目です。合戦の場に立ち慣れた人が、今度は戦場から降りる役を演じている、ということになります。
俳優になったきっかけ
もともとテレビが好きで、映画が好きな子どもだったそうです。決め手になったのは『男はつらいよ』の絵看板でした。そこに描かれた渥美清さんを見て、こういう人生があるんだなあ、と思ったといいます。看板になるような人生、という言い方をしていました。
実際に踏み出したのは、高校の同期がきっかけでした。きたろうさんの息子さんと同期で、その人が先に役者を始めた。その影響で自分も始めたのだそうです。
誘いは別の方向からも来ていました。サッカー部の先輩から、芸人にならないかと声をかけられたそうです。十九のころには、コンビ名まであったといいます。その名前は明かしてもらえませんでした。検索されてしまうから言いたくない、と笑っていました。
それでも本人は、最初から俳優だった、という言い方をしていました。俳優として動き出したのは二十四のころ。アルバイトをしながらのスタートだったそうです。
絵看板に憧れた少年が、アルバイトから始めて、いま大河で引き際を演じている。ただの川並衆から大名になった正勝が「まさか大名にまでなるとはのう」とこぼす場面を、この人が演じている。そう並べてみると、さきほどの「結果を残して次の仕事をいただいていく」という話とも一本につながります。
演じるうえで大切にしたこと ── 下調べと、愛すること
大切にしたことを二つ挙げていました。ひとつは下調べです。史料や、実際に残っているものをあらかじめ見ておいたといいます。墓を訪ねたのも、その延長でしょう。正勝が何をして、どう死んだかを先に押さえてから現場に入った、ということになります。
もうひとつが、人としての捉え方でした。正勝は愛のある人だ、と高橋さんは言います。そして、愛されるには愛さないとだめだ、とも。だから作品そのものも、現場の全員も愛そうと思って取り組んだのだそうです。
この取り組み方は、正勝の生き方をそのままなぞっています。斬るよりつなぐ人で、人と人のあいだに入り、最後は「おぬしらに人生をかけて、本当によかった」と言って降りていった。演じ方と役の生き方が、同じ方を向いています。秀長を支えた家臣団のなかでも、この人の立ち位置は少し違って見えます。
高橋努が見た正勝 ── 知将であり、間に立つ人
演じている本人が正勝をどう捉えているか、という話も出ていました。高橋さんは正勝を知将だと思っている、と語っています。いろいろな人のあいだに入っていく人だ、とも。
これは史実の正勝像とよく合います。織田家時代の手柄を並べてみると、槍働きよりも調略と取次が目立ちます。美濃の国衆を寝返らせ、播磨で相手を説き、墨俣では川を知る者として人と物を動かしました。斬るより、つなぐ人でした。
そして「最も心を許した相手は」と問われて挙げたのが、前野長康(将右衛門)でした。義兄弟の契りを結んだ相手です。
この二人は同じ川並衆から出て、同じ戦場を歩き、そして天正十三年に道が分かれます。正勝は阿波を辞退して隠居し、長康は但馬出石に入って表に残りました。二人の結末はどこで分かれたのかに、その差をまとめています。
もうひとつ、高橋さんの言葉で残るものがありました。結果を残して、次の仕事をいただいていく。その繰り返しが役者と似ている、というのです。
手柄を立てて次の役目を与えられ、また手柄を立てる。正勝が積み上げた武功は、まさにその連なりでした。そして年齢とともに、自分から降りる日が来る。引き際の場面に実感がこもって見えるのは、この見方が下敷きにあるからかもしれません。
史実では、いつ亡くなるのか
正勝が世を去るのは天正十四年五月二十二日。隠居したその翌年です。享年六十一。その死までの経緯は別の記事にまとめています。
- 天正十三年 ── 四国攻めののち、阿波一国を辞退。子の家政に譲る
- 同年 ── 隠居の身となる
- 天正十四年五月二十二日 ── 死去。享年六十一
- 阿波は家政が継ぎ、徳島藩として幕末まで続く

徳島城跡の堀と石垣。正勝が受けなかった阿波は、子の家政が継いだ
同じ川並衆から出た、もう一人
正勝と義兄弟の契りを結んだ前野将右衛門(長康)は、同じ天正十三年に逆の道を選びました。但馬出石に五万三千石で入り、表に残ります。そして文禄四年、秀次事件に連座して切腹しました。
同じ年の同じ論功行賞で、一方は降り、一方は上がった。二人の結末はどこで分かれたのかに、その差をまとめています。正勝という人物そのものや豊臣の家臣団とあわせてどうぞ。
なぜ辞退したのか ── 三つの見方
一国を断るというのは、普通に考えれば奇妙な話です。理由の読み方はいくつかあります。
- 年齢 ── 「すでに齢六十にして隠居の身」と史料にある。受けても務まらないという判断
- 家をつなぐため ── 当主が先に代を譲っておけば、前の代の縁で咎められる余地が小さくなる
- 秀吉への配慮 ── 古参が大きく取ると、あとに続く者の取り分が減る
ゆかりの地をたどる
正勝の足跡は、いくつかの城で追えます。
織田家時代の正勝をたどると、これらの場所が一本の線でつながって見えてきます。
これからの見どころ ── 家臣団が、老いていく
最後に、この先の見どころも語っていました。撮影現場を見てきた立場から出てきたのが、豊臣の家臣団がだんだん老いてきている、という言葉です。秀長が最後どうなるかは自分は知らない、と断ったうえで、見どころは満載だと話していました。
史実の側から見ても、この言い方は的確です。若い兄弟を支えてきた世代が、順に退いていきます。
- 天正十四年五月 ── 蜂須賀正勝が没する
- 天正十九年正月 ── 豊臣秀長が郡山城で没する
- 同年二月 ── 千利休が切腹する
- 翌年 ── 朝鮮への出兵がはじまる
- 文禄四年 ── 秀次事件。前野長康もここで死ぬ
支える側が消えたあと、豊臣の家がどう傾いていったのか。もし豊臣秀長があと十年生きていたらで、その順番を史実に沿って追いました。老いていく、という現場の実感は、そのまま家の寿命の話につながります。
ほかの家臣たちは、これからどうなるのか
第38回以降も、秀長の周りの人びとが動きます。筆屋の才蔵、庄屋の石川清兵衛、興福寺の磐覚。それぞれの「その後」は個別にまとめました。
第38回「和を以て、大和をなす」の見通しから、各人の記事へたどれます。秀長の家臣団の一覧もあわせてどうぞ。
まとめ
史実の正勝については武功と最期と蜂須賀正勝(小六)とはに、義兄弟との比較は前野将右衛門との結末の差にまとめています。
- 第37回で阿波一国を辞退し隠居したが、出番が終わるわけではない
- 高橋努さんは、これからは回想などの形で登場すると語っていた
- 宴の場面は本来四人だけの場面で、役者陣の希望で人が集まり、いまの形になった
- 史実では天正十四年五月二十二日に死去。享年六十一
- 阿波は子の家政が継ぎ、徳島藩として幕末まで続いた
この記事の高橋努さんの発言は、NHK『ニュースーン』で放送されたインタビューの内容を要約したものです。一字一句の引用ではありません。
劇中で正勝が率いる川並衆については、川並衆とは何者だったのかで史料の上での実像を整理しました。

