安土城跡(近江八幡市):織田信長の天下布武の城 大手道と石垣、三年で焼けた天主

目次

安土城とは

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として築いた城である。琵琶湖に突き出た安土山(標高約199メートル)に、天正四年(1576)から築かれた。

信長が住んだのはわずか三年ほどで、天正十年(1582)の本能寺の変の直後に天主と本丸を焼失。天正十三年頃には廃城となった。それでも、この城が日本の城の姿を変えたことは動かない。特別史跡、日本100名城第51番。

安土城址の石碑

安土城址の石碑。城跡は約96万平方メートルにおよぶ(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)

天正四年、琵琶湖のほとりに

着工は天正四年正月。前年に長篠で武田勝頼を破った信長が、その勢いのまま始めた大事業である。普請の総奉行は丹羽長秀。畿内・東海・北陸から人夫が動員され、当代最高の職人が集められた。

天正七年に天主が完成し、信長が移り住む。地上六階地下一階、外観五重と伝わる天主は、それまでの日本の城にない建築だった。金箔瓦が葺かれ、内部には狩野永徳らの障壁画が描かれたという。宣教師ルイス・フロイスもその壮麗さを書き残している。

安土城大手道の入口

大手道の入口。城の正面がこれほど開けている城は他にない

まっすぐ登る大手道 ─ 守る城ではなく、見せる城

安土城で最も特異なのは大手道である。幅およそ六メートルの石段が、山裾から主郭へ向かって百八十メートルほど、ほぼ一直線に伸びている。

安土城の大手道

直線に伸びる大手道の石段。両側に家臣の屋敷が並んでいた

城の防御という観点から見ると、これは明らかに不合理である。小谷城のように尾根を折れ曲がらせるでも、一乗谷のように谷の入口を城戸で塞ぐでもない。攻め手はまっすぐ主郭まで登れてしまう。

つまりこの道は、敵を止めるために作られていない。訪れる者に城主の権威を見せるために作られている。同じ近江の山城が「入らせない」ことを追求していたのに対し、安土は「入らせる」ことを設計思想にした城だった。信長は自分の城を、人に見せたかったのである。

大手道に並ぶ家臣の屋敷

大手道の両側には、重臣たちの屋敷が置かれていた。石段を登り始めてすぐ右手に、伝羽柴秀吉邸跡がある。

伝 羽柴秀吉邸址の石柱

「傳 羽柴秀吉邸址」の石柱。大手道の入口近くという一等地に置かれていた

屋敷の位置は序列を映す。秀吉が城の正面に近い場所を与えられていたことは、天正年間の織田家中での彼の地位を物語る。弟の秀長もこの頃には兄の名代として動いており、安土に出入りしていたはずである。

伝 織田信忠邸址の石柱

「傳 織田信忠邸址」。信長の嫡男の屋敷は杉木立の中にある

もう一つ興味深いのが、伝武井夕庵邸跡である。武井夕庵は信長の右筆、つまり文書行政を担った人物で、もとは斎藤道三・義龍に仕えていた。武辺の者ではなく、書く人間が大手道沿いに屋敷を構えている。安土城が軍事拠点であると同時に、行政の中枢だったことがここに表れている。

城の中に寺があるということ

信長は城内に摠見寺という寺を建てた。本能寺の変で天主が焼けたあとも、この寺は信長の菩提を弔いながら城跡を守り続け、現在に至っている。

摠見寺本堂跡

摠見寺本堂跡。嘉永七年(1854)に焼失し、礎石だけが残る

本堂は幕末の嘉永七年(1854)に焼失したが、三重塔と二王門は現存し、いずれも国の重要文化財である。仮本堂は伝徳川家康邸跡と伝えられる場所に置かれている。

ここで注目したいのは、城の中に参詣者を通す寺があったという事実である。大手道を登り、家臣の屋敷を眺め、寺を参る。城が閉ざされた軍事施設ではなく、人が通る場所として設計されていたことが、この配置からうかがえる。

三年で焼けた天主

天正十年六月二日、本能寺の変で信長が討たれる。城は明智光秀の手に渡ったが、その光秀も山崎で秀吉に敗れ、まもなく天主と本丸が焼失した。誰が火を放ったのかは、明智の残兵説、織田信雄の誤認説、土民の略奪説などがあり、決着していない。

それでも安土城はすぐには廃されなかった。織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護のもとで信長の次男・信雄や孫の三法師が入城し、信長の跡を継ぐ者であることを示した。だが天正十二年の小牧・長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると、織田の天下は終わる。翌年、安土城は役目を終えて廃城となった。

その後、秀吉は大坂に城を築き、家康は江戸へ移った。二人とも安土の天主を手本にしながら、安土そのものは使わなかった。安土城は天下人の城の原型でありながら、誰にも受け継がれなかった城である。

いま残る石垣

安土城の高石垣

主郭を支える高石垣。穴太衆の技術によるものと伝わる

建物は失われたが、石垣は各所に残る。近江の石工集団・穴太衆が積んだと伝えられ、自然石を巧みに組み合わせた野面積みが特徴である。石段や石垣には石仏や墓石が転用されており、大和郡山城と同じく、当時の築城が石材の確保に苦労していたことを示している。

昭和十五・十六年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査が行われ、昭和三十五年から五十年にかけて主郭部の石垣が修理された。平成元年度からは二十年計画の調査整備事業が進められ、大手道の全容もこの過程で明らかになっている。

安土城の現地写真

安土城・場所・アクセス

〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
JR東海道本線(琵琶湖線)「安土駅」から徒歩約25分。名神高速 竜王インターから車で約25分。日本100名城 第51番。

大手道から天主跡までは石段が続き、往復で一時間ほど見ておきたい。摠見寺の三重塔と二王門は下山ルートの途中にある。入山には料金が必要で、時間も定められているため、訪問前に確認を。

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