沓掛城:今川義元の大軍がこの城から出撃し桶狭間の戦いで敗戦 沓掛城【お城特集 日本の歴史】

沓掛城/アクセス・場所・地図 今川義元の大軍がこの城から出撃し桶狭間の戦いで敗戦 沓掛城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
沓掛城

【沓掛城の説明】
沓掛城は愛知県豊明市沓掛町にあった平城である。
築城時期は諸説あるが応永年間とされるのが有力であり、築城者は「近藤宗光」「藤原義行」の名が挙げられている。

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室町時代に入ると、近藤氏が沓掛城主として統治していたことは事実のようだ。戦国時代に入ると、9代目の当主「近藤景春」は「松平広忠」の家臣となっており、しばし三河へ侵攻してくる「織田信秀」の軍勢と戦いを繰り返した。

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天文20年(1551年)、信秀が死去すると「鳴海城主」山口教継・教吉父子とともに「今川義元」の傘下に入った。永禄3年(1560年)に今川義元が尾張へ侵攻すると、この軍勢に加わり「桶狭間の戦い」で義元が信長に討たれるとすぐさま沓掛城へと引き返している。

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同年、信長の軍勢が沓掛城を攻撃しあえなく落城しここに近藤氏による支配は終わりを迎える。近藤氏が滅びると沓掛城主には「簗田政綱」が城主に任命されるが、天正3年(1575年)政綱は「加賀天神山城」へ移封となり、その後は「織田信照」「川口宗勝」が城主を勤めた。

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戦国時代後期まで宗勝が城主を務めたが慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」で西軍に味方したため「宗勝」は敗戦後に捕らえられて「伊達政宗」にお預けとなった。これにより「沓掛城」は廃城となった。

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現在の城跡は「沓掛城址公園」として整備されており、本丸跡、空堀、諏訪曲輪などの遺構が残っている。

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【沓掛城・場所・アクセス】
〒470-1101 愛知県豊明市 沓掛町東本郷

【沓掛城地図】



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