日本の歴史 信長公記:桶狭間の戦い(中編) 【日本の歴史ガイド】

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■ 日本の歴史 信長公記:桶狭間の戦い(中編)

織田信長の家臣「太田牛一」が書き残した「信長公記」の桶狭間の戦いの行(くだり)をご紹介いたします。

時刻は19日の正午になろうとしていた。今川義元は鷲津砦・丸根砦の陥落を聞いて機嫌がよく、陣中で謡をうたっていた。徳川家康は、先懸けとして大高城の兵糧入れから鷲津砦・丸根砦の攻略まで散々に追いまわされて大高城でやっと休息をしていた。

信長公が善照寺砦に入ったのを知った「佐々隼人正」らは、「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と語らい、三百人あまりで打って出てしまった。攻撃はいとも簡単に跳ね返されて佐々隼人正は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死した。

これを聞いた義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けた。信長公はさらに中島砦に進もうとした。しかし中島砦までは一面の深田の間を縫って狭い道が繋がっているだけなので、敵からは無勢の様子が丸見えとなり、家老たちは馬の轡をとってこれを諌めた。

それでも信長公は聞かず、まわりの諌めを振り切って中島砦へ移った。この時点でも人数は二千騎にも満たなかったという。信長公はさらに中島砦をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられた。

ここに至って信長公は全軍に通達した。
「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。

くらべて我らは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。

而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」

この時、前田又左衛門利家・毛利十郎・木下雅楽助らがそれぞれ斬穫した首をもって参陣した。信長公はこれらも手勢に組み入れて、桶狭間の山際まで密かに行動した。

するとにわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の嵐によって、沓掛の峠に立つ大きな楠が東へ向け音をたてて倒れた。人々はこれぞ熱田明神の御力であろうとささやき合った。やがて空が晴れてきた。

信長公は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」と最後の下知を下した。全軍は義元の本陣をめがけて、黒い玉となって駆け出した。(出典:信長公記)

※写真は織田信長の居城「清洲城」本丸です。信長はこの門をくぐって桶狭間の戦いに向かったのでしょうか。
清洲城:愛知県清須市朝日1−1

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