福知山城:明智光秀の山陰地方平定戦に抵抗した城 赤井直正の福知山城【お城特集 日本の歴史】


【城名】
福知山城

【城の説明】
京都府福知山市にある福知山城は、江戸時代には福知山藩の居城であった。福知山城は中世(室町時代)の頃にこの地方の豪族「塩見頼勝」が八幡山付近に「掻上城」を築いたのが始まりと言われている。

現在のような縄張りは戦国時代の織田家の武将「明智光秀」がおこなったとされている。戦国期に畿内を制圧した織田信長は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)を山陽道へ進軍させ、明智光秀には山陰道への進軍を命じた。

福知山城:明智光秀の山陰地方平定戦に抵抗した城 赤井直正の福知山城【お城特集 日本の歴史】

天正6年(1578年)明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波の制圧戦を開始。これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治などで、この時の塩見家当主「信房」は赤井直正、波多野秀治連合軍に加担していた。

赤井直正、波多野秀治連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を一度は撃退したが、天正6年(1578年)3月に赤井直正が病死してしまう。翌天正7年(1579年)6月には「波多野秀治」の居城八上城が落城し、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月に落城した。

これより丹波国征討戦はさらに進み、同年8月には明智家の家臣「四王天政春」「林半四郎」「矢島刑部」「朽木久兵衛」「加上弥右衛門」らが塩見家の籠る横山城を攻めた。塩見信房と弟の信勝は必死に防戦したが、衆寡敵せずついに自刃して果てた。これを期に福山地方の国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。

福知山城:明智光秀の山陰地方平定戦に抵抗した城 赤井直正の福知山城【お城特集 日本の歴史】

丹波の国を平定した明智光秀は現在の場所に福知山城を築き、娘婿の明智秀満(光秀の従弟との説もある)を城主とした。天正10年(1582年)6月、光秀は「本能寺の変」により織田信長を討つことに成功する。明智秀満は「本能寺の変」で武功を立てるが、羽柴秀吉との戦い(山崎の戦い)で敗れて近江坂本城へと退去した。

光秀も坂本城に退去して再起を図ろうとしていたが、坂本へ撤退中に討たれてしまう。一方、福智山城では秀満の父が城代として在城していたが羽柴軍によって落城し、京都粟田口で処刑された。福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする豊臣秀勝(秀吉の養子)が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが間もなく病死する。その後は「小野木重勝」が城主となった。

豊臣秀吉の没後、(1600年)関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に味方し、東軍に属していた細川幽斎が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が田辺城の留守を守り必死に防戦した結果、朝廷のはからいにより和議が成立した。

関ヶ原の戦いに勝利すると、細川忠興は福知山城の小野木重勝を攻めて城を落とし、重勝は亀山城下の寿仙院で切腹する。関ヶ原の戦いの戦功により福知山城に入封したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの有馬豊氏統治時代に完成した。はじめは6万石で入国したが間もなく2万石の加増を受け8万石の大名となった。

有馬豊氏は山陰道を押える要衝地にあった福知山城を近世城郭として大改修し、華麗な姿に変貌させた。元和6年(1620年)大坂の陣などで戦功を重ねた有馬豊氏は久留米藩に加増転封され、元和7年(1621年)岡部長盛が亀山城から入封する。

福知山城:明智光秀の山陰地方平定戦に抵抗した城 赤井直正の福知山城【お城特集 日本の歴史】

その3年後「岡部長盛」も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より入封する。その稲葉紀通も慶安元年(1648年)改易となり、慶安2年(1649年)刈谷藩から松平忠房が入部した。松平家も20年後には島原藩へ転封する。寛文9年(1669年)6月、土浦藩の朽木稙昌が入部し、明治2年(1869年)の幕末に至るまで朽木氏が13代世襲し統治した。

現在は、福知山城公園として整備され、昭和61年(1986年)三重三階の大天守と二重二階の小天守がに復元された。その復元天守は福知山市郷土資料館の施設となっている。






【福知山城・所在地・アクセス】
〒620-0035 京都府福知山市内記5

【福知山城マップ】



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