秀吉や家康、天皇まで診た医師・曲直瀬玄朔。では、こうした医師はそもそもどんな身分で、どうやって稼いでいたのか。戦国時代には医師の免許も病院もない。給料の決まった勤め先があったわけでもない。玄朔の記録を手がかりに、戦国の「医者」という職業と、その収入の中身を見ていく。
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 戦国時代の医者に免許はなく、師匠について学べば誰でもなれた
- 身分の高い医師は剃髪して僧の姿になり、「法印」「法眼」などの僧の位を受けた
- 収入は大きく分けて①診療の謝礼と褒美 ②仕える主君からの知行(領地)③屋敷の拝領
- 玄朔は天皇の病を治して黄金の花瓶と白銀千両を賜ったと伝わる
- 子の玄鑑は秀忠から七百石の知行を与えられ、一族は江戸城のそばに屋敷を構えた
- ただし主君の失脚に巻き込まれれば、すべてを失いかねない職業でもあった
そもそも「医者」はどんな職業だったのか
戦国時代の日本には、医師の国家試験も免許もない。医者になる道は、名のある医師に弟子入りし、医書を読み、師のもとで治療を学ぶことだった。身分を問わず、学べば誰でも医者を名のることができた。
玄朔を育てた曲直瀬道三も、もとは寺で学んだ人物である。道三は京に医学校「啓迪院」を開いて多くの弟子を育て、その門下が各地で医師として活動した。医者の質を支えていたのは、制度ではなく「誰に学んだか」だった。
医者の働き方もさまざまだった。
- 町医者:京などの町で、依頼に応じて往診・投薬を行う
- 侍医・番医:将軍や大名、天皇家などに仕え、主君とその一族を診る
- 陣医:合戦に従い、陣中で負傷者や病人を診る
玄朔はこのすべてを経験している。京で道三のもとで医業を学び、秀吉に仕える番医となり、朝鮮出兵では名護屋から海を渡って毛利輝元を治療した。『医学天正記』には、天皇や大名だけでなく、足軽や町の人びとの治療も記されている。
医者が「お坊さんの姿」をしていた理由
戦国から江戸時代の医師の肖像を見ると、多くが頭を丸め、僧のような衣をまとっている。身分の高い医師は、剃髪して僧の姿になるのが慣例だったからだ。
医師は武士でも公家でもない。そこで朝廷は、医師に僧侶の位を与えることで格付けをした。上から法印(ほういん)・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)で、法印は医師として最高の位である。
玄朔は天正十四年(1586)に法印に叙された。子の玄鑑も慶長四年(1599)に法眼、慶長十三年(1608)に法印へと進んでいる。位は、そのまま医師としての格と信用、そして報酬の高さにつながった。
収入① 診療の謝礼と「破格の褒美」
医師の基本的な収入は、治療に対する謝礼である。薬を調合して渡し、病が治れば礼の品や銀が届く。相手が大名や天皇であれば、その額はけた違いになった。
いちばん有名なのが、慶長三年(1598)の話である。後陽成天皇が重い病に倒れたとき、朝廷は勅命で玄朔を呼び戻した。玄朔は天皇を快復させ、黄金の花瓶と白銀千両という破格の褒美を受けたと伝わる。
玄朔を育てた初代道三も、大名から多額の礼を受けている。天正十六年(1588)、上洛した毛利輝元を自邸でもてなした道三は、輝元から銀子百枚を贈られた。また信長からは、東大寺正倉院の名香蘭奢待を分け与えられている。お金では買えない、最高の名誉の品である。
収入② 知行 ── 医者も「領地」をもらった
主君に仕える医師は、武士と同じように知行(領地からの収入)を与えられることがあった。知行は「石(こく)」で表される。一石はおよそ大人一人が一年に食べる米の量とされる。
曲直瀬家の場合、慶長十三年(1608)、玄朔の子・玄鑑が徳川秀忠から上総・下総(いまの千葉県)で七百石の知行を与えられた。同じ年、玄朔自身も秀忠の治療のために江戸へ招かれ、屋敷を与えられている。
七百石は、大名(一万石以上)には遠く及ばないが、旗本としては中堅以上の石高である。のちに今大路家とならんで幕府の医官の頂点に立った半井家は、最終的に千五百石を知行した。腕のいい医師は、武家社会の中でもしっかりとした経済的地位を得ていたことになる。
知行は、一度もらえば基本的に子孫へ受け継がれる。謝礼や褒美が「その時かぎり」の収入だったのに対し、知行は家を代々支える安定した収入だった。
収入③ 屋敷 ── 江戸城のそばに構えた医家
もうひとつの大きな待遇が、屋敷の拝領である。
曲直瀬家(今大路家)の屋敷は、江戸城のすぐそば、いまの大手町・丸の内のあたりにあった。屋敷の前を流れる堀は、この家の名をとって「道三堀」と呼ばれた(くわしくは「曲直瀬」という名字の由来の記事で書いている)。
江戸城の近くに住むことは、将軍が倒れたとき、すぐに駆けつけられるということでもある。屋敷の場所そのものが、主君からの信頼の深さを示していた。
いちばん大きなリスク ── 主君の失脚
医師の収入と地位は、誰に仕えているかで決まった。それは同時に、いちばん大きなリスクでもあった。
文禄四年(1595)、関白・豊臣秀次が切腹に追い込まれると、秀次の侍医だった玄朔も常陸の佐竹義宣のもとへ預けられた。事実上の流罪である。天皇の病で呼び戻されなければ、法印の位も財産も、そこで失っていたかもしれない。
秀次の往診をめぐっては、玄朔が天皇の診察を後回しにしたことが問題にされたという説もある(医学天正記とは)。権力者の体を預かる医師は、権力の争いからも逃れられなかった。
よくある質問
Q. 戦国時代の医者は武士ですか、僧侶ですか?
A. どちらでもありません。独立した職業ですが、身分の高い医師は剃髪して僧の姿となり、法印・法眼・法橋という僧の位を受けました。主君に仕えて知行をもらう医師は、武士に近い扱いも受けました。
Q. 医者になるのに資格は必要でしたか?
A. 必要ありませんでした。名医に弟子入りして学ぶのが一般的な道でした。
Q. 曲直瀬玄朔の年収はいくらですか?
A. 年収の形で記録されているわけではありません。記録に残るのは、天皇快復の褒美(黄金の花瓶・白銀千両)や、子の玄鑑が受けた七百石の知行、江戸の屋敷の拝領などです。
Q. 七百石は、いまのお金でどれくらいですか?
A. 米の値段の換算方法によって大きく変わるため、正確な金額は出せません。旗本としては中堅以上の石高にあたります。
まとめ
戦国の医者は、免許も病院もない世界で、腕と師匠の名、そして仕える主君を頼りに生きていた。天皇や天下人を治せば、白銀千両の褒美も、代々続く知行も、江戸城のそばの屋敷も手に入る。
一方で、主君が倒れれば自分も流される。曲直瀬玄朔の生涯は、戦国の医者が、腕一本で大きく稼げる職業であると同時に、権力と運命をともにする職業だったことをよく示している。
医学天正記とは:曲直瀬玄朔が書いた戦国のカルテ
秀吉・秀次・輝元を診た医師は、なぜ常陸へ流されたのか。
「曲直瀬」という名字の由来
道三が自ら名づけた姓と、今大路家、東京の道三堀。
戦国武将の病気と死因
玄朔たちが枕もとで見た、武将たちの最期。

