羽生城:上杉謙信の関東攻略の最前線となった広田・木戸氏の平城 羽生城【お城特集 日本の歴史】

史跡 羽生城址の石碑(埼玉県羽生市・古城天満宮境内)

【城名】
羽生城

【羽生城の説明】
羽生城は埼玉県羽生市にあった平城で、天文年間の中頃(1540年代)に古河公方・足利晴氏の配下であった「広田直繁」・「木戸忠朝」兄弟によって築かれたと伝わる。
三方を沼地に囲まれた天然の要害であり、上杉謙信の関東攻略における最前線基地として重要な役割を担った。

史跡 羽生城址の石碑(埼玉県羽生市・古城天満宮境内)

天文23年(1554年)、古河公方・足利晴氏が小田原の北条氏康に敗れると、羽生城も一時は北条氏の支配下に入った。しかし永禄3年(1560年)、越後の上杉謙信が関東へ進出すると、広田直繁・木戸忠朝はこれに従い、以後は上杉方の拠点として北条氏と対峙することになる。

永禄4年(1561年)、木戸忠朝は皿尾城(現在の行田市)へ移って羽生城は広田直繁が守り、元亀元年(1570年)には広田直繁が館林城へ移って、代わりに木戸忠朝が羽生城の守りに就いた。兄弟は城を守り継ぎながら、上杉方の関東における橋頭堡として奮戦を続けた。

羽生古城之図(羽生城の縄張りと沿革を示す案内板)

天正2年(1574年)、上杉謙信の関東での勢力後退にともない、羽生城は北条氏の攻撃を受けて落城し、以後は忍城の城主の支配下に置かれた。
天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国後は「大久保忠隣」が羽生城主となって一万石を領したが、慶長19年(1614年)、忠隣の改易にともなって羽生城は廃城となった。

羽生城跡・羽生菅公廟梅樹記の碑・天満宮の額を紹介する指定文化財の案内板

現在、城の遺構をとどめるものはほとんど残っていないが、羽生市東の古城天満宮(天神社)一帯が本丸の推定地とされ、「史跡 羽生城址」の石碑が建てられている。境内には羽生市の指定文化財である「羽生菅公廟梅樹記の碑」や、黄檗僧・高泉性潡の筆による「天満宮の額」も伝えられており、往時をしのぶよすがとなっている。

【羽生城・場所・アクセス】
〒348-0052 埼玉県羽生市東5丁目

【羽生城地図】

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