二条城とは
京都市の中心部にある二条城は、徳川家康が京都における拠点として築いた城で、江戸幕府の始まりと終わりを見届けた歴史の舞台である。国宝の二の丸御殿をはじめ、豪壮な櫓や石垣、名庭が今も良好に残り、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録されている。日本100名城にも数えられ、京都観光でも屈指の人気を誇る名城だ。

外堀の隅を固める二条城の東南隅櫓。往時の城郭建築を今に伝える二層櫓
徳川家康が築いた京の拠点
二条城が築かれたのは慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任じられた年である。京都御所の守護と、将軍が上洛した際の宿館を兼ねてこの城は造られた。家康はこの城で将軍就任の祝賀の儀を執り行い、江戸幕府の権威を天下に示した。

二条城の正門・東大手門。金の飾り金具をあしらった、徳川将軍家の威容を伝える櫓門
慶長16年(1611年)には、家康とまだ幼い豊臣秀頼との会見がこの二条城で行われた。天下の実権が豊臣から徳川へと移りゆくことを、世に印象づけた歴史的な対面である。やがて大坂の陣で豊臣家が滅びると、二条城は名実ともに徳川の京都支配の中心となった。豊臣との対立の全体像は大坂の陣(冬・夏)の記事で詳しく解説している。
二の丸御殿と大政奉還
二条城の中心を成すのが、国宝に指定された二の丸御殿である。書院造の代表的建築で、狩野派の絢爛な障壁画や、歩くと音が鳴る「うぐいす張り」の廊下で名高い。三代将軍・徳川家光の時代には、後水尾天皇の行幸を迎えるために城は大改修・拡張され、豪華絢爛な姿を整えた。
そしてこの二の丸御殿の大広間こそ、日本史の転換点となった舞台である。慶応3年(1867年)、15代将軍・徳川慶喜がここで諸大名を集め、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を表明した。徳川家康が幕府を開いた城で、最後の将軍が幕府に幕を引く——二条城は、江戸時代の始まりと終わりの両方を見届けた、稀有な城なのである。
もっとも、政権を返したあとも旧幕府と新政府の対立は収まらず、翌慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いへと進んでいく。敗報が届いた江戸城で何が起きたのかは、幕末歴史ガイドの小栗忠順の罷免とはで紹介している。
本丸と幻の天守

内堀に架かる橋の先に構える二条城の本丸櫓門。本丸を守る堅固な桝形門
二条城には、かつて五重の壮麗な天守がそびえていた。もとは伏見城などから移されたと伝わるこの天守は、しかし寛延3年(1750年)に落雷で焼失し、以後再建されることはなかった。今も本丸の一角には、天守がそびえていた高い天守台の石垣が残り、往時の規模をしのばせる。

二条城の内堀と高石垣。かつて五重の天守がそびえた本丸を囲む
内堀に囲まれた本丸へは、堅固な櫓門と橋を渡って入る。二の丸の華やかさとは対照的に、本丸周辺は城郭らしい静かな威厳をたたえている。石垣と水堀が織りなす景観は、平城でありながら要害としての備えを怠らなかった徳川の築城思想を伝えている。
現在の二条城——世界遺産

「史蹟 旧二条離宮 二条城」の石標が立つ東大手門前。世界遺産に登録された名城
明治以降、二条城は皇室の離宮「二条離宮」となり、のちに京都市へと下賜されて「元離宮二条城」となった。平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」の構成資産としてユネスコ世界遺産に登録されている。現在は有料で一般公開され、国宝の二の丸御殿、小堀遠州作と伝わる二の丸庭園、東大手門や隅櫓など、見どころは尽きない。拝観料はやや高めだが、その価値は十分にある。京都で徳川の歴史を体感するなら、まず訪れたい城である。天下の趨勢を決した戦いの流れは関ヶ原の戦いの記事、豊臣方の拠点だった大阪城とあわせて巡ると、天下がどう移り変わったかがいっそう深く見えてくる。
二条城・場所・アクセス
〒604-8301 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
伏見桃山城:あの天守は昭和の建物 ― 秀吉の最後の城と、鳥居元忠の十三日
秀吉が最期を迎え、徳川三代が将軍宣下を受けた城。天守の来歴には注意が要ります。
二条城地図
徳川将軍15人の墓はどこにあるのか:増上寺・寛永寺・日光・谷中
十五人の将軍が眠る場所を一覧に。いま実際にお参りや見学ができるのかも。
