前田利家像:織田信長の家臣にて荒子城主でもあった前田利家像(荒子駅前)

前田利家像:織田信長の家臣にて荒子城主でもあった前田利家像(荒子駅前)

【史跡名】
前田利家像

【説明】
荒子城主は兄の「前田利久」が継ぐ予定であったが織田信長の小姓であり、お気に入りでもあった利家が兄をさしのけて荒子城主に任命されました。
前田家としても権力者信長の意に反することは出来なかったのです。

その後、数々の武功を立て越前府中城主、金沢城主に任命され加賀100万石のいしずえをつくった。
若かりし頃の前田利家像が現在の荒子駅前に建立されています。

目次

荒子駅前に立つ、若き日の利家

あおなみ線の荒子駅を降りると、槍を手にした若武者の像が立っています。前田利家です。像が若い姿なのは、ここが利家の生まれ育った土地だからです。すぐ近くには荒子城跡があり、いまは富士権現天満宮の境内になっています。加賀百万石の話よりも前、まだ「槍の又左」と呼ばれていたころの利家がここにいます。

信長に追放された日々

利家は若いころ、信長の同朋衆を斬ったことで出仕を止められ、屋敷も禄も失いました。それでも利家は諦めず、許しのないまま合戦の場へ現れ、手柄を立てて首を持ち帰ります。桶狭間でも、続く森部の戦いでも同じことをして、ようやく帰参を許されました。兄をさしおいて荒子城主になれたのは、この働きがあったからです。血気盛んで、槍ひとつで身を立てた男というのが、この時期の利家です。

勝家と秀吉のあいだで

信長が本能寺で倒れたあと、利家は北陸で柴田勝家の与力として働いていました。ところが賤ヶ岳の戦いでは、戦いの最中に戦線を離れ、勝家の敗北を決定づけます。若いころから秀吉とは親しく、どちらにも義理があるなかでの選択でした。その直後に佐々成政が能登へ攻め込んだのが末森城の戦いで、利家はわずかな兵で駆けつけて城を守り抜いています。妻のまつが自ら人質となって徳川との関係をつないだ話はまつ(芳春院)で書いています。

加賀百万石へ

賤ヶ岳のあと、利家は秀吉のもとで加賀・能登・越中を任され、金沢城を本拠に据えました。のちの加賀百万石の土台です。秀吉の晩年には五大老の一人となり、幼い秀頼の後見役として家康と向き合いました。利家が亡くなった翌年、天下は関ヶ原へ動きます。荒子の若武者の像は、その長い道のりの出発点に立っています。

像を訪ねるなら

像は荒子駅の駅前広場にあります。荒子城跡(富士権現天満宮)までは歩いて十分ほどで、境内には城址の碑と利家の説明板があります。名古屋駅からあおなみ線で十分ほどなので、駅前の像と城跡をあわせて短い時間で回れます。

【前田利家像・場所・アクセス】
〒454-0874 愛知県名古屋市中川区吉良町138−2

【前田利家像地図】

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