■ 日本の歴史ブログ
悲しい小藩の定め?新政府軍と旧幕府軍に二股をかけざるを得なかった郡上藩【日本の歴史ブログ】
郡上藩は幕末時には青山家が治める領地でした。
2万4千石という小藩の悲しさなのか、戊辰戦争時は新政府軍と旧幕府軍の両方に味方するそぶりを見せていました。
その結果、国元では新政府軍に恭順し、江戸屋敷では「凌霜隊」を組織して旧幕府軍とともに新政府軍と闘いました。
関東の戦いから会津若松の籠城戦までを戦い、会津藩の降伏とともに「凌霜隊」も解散となりそれぞれ国元へ送られることになりました。
※戊辰戦争最大の激戦会津若松城

※白虎隊の悲劇 飯盛山

結局、旧幕府軍は五稜郭の戦いを最後に終焉を迎え、新政府軍が日本を治めることになります。
これにより旧凌霜隊の隊員たちは国元で禁固刑や入牢を命じられるが明治3年にそれぞれ許されることになります。
小藩の定めとはいえ、この戦で命を落とした「凌霜隊」の隊士は複雑な心境だったのではないでしょうか。
※郡上藩凌霜隊石碑

藩を二つに割るという選択
戊辰戦争のとき、郡上藩は二万四千石の小さな藩でした。新政府軍に付けば旧幕府方に恨まれ、旧幕府方に付けば朝敵とされる。どちらを選んでも家が危うい状況で、藩が取ったのは「両方に付く」という道でした。国元は新政府に恭順し、江戸にいた藩士たちは凌霜隊(りょうそうたい)を組んで旧幕府軍とともに戦ったのです。
関東から会津へ
凌霜隊は関東各地を転戦し、やがて会津若松城の籠城戦に加わります。会津が降伏すると隊も解かれ、隊士たちは国元へ送り返されました。
帰ってからが、いちばん苦しかった
国元は新政府に恭順していましたから、帰ってきた隊士は「藩に背いた者」として扱われました。禁固や入牢を科され、長く冷遇されます。藩を守るために江戸で戦った者が、藩の都合で罪人になったわけです。小藩が生き残るために払った代償が、そのまま個人に回された形でした。
郡上八幡に残るもの
郡上八幡城の麓には、凌霜隊を顕彰する碑が立っています。山の上に復元された天守から見下ろす城下町は、水路と踊りで知られる町です。その町が、幕末にこれだけの重荷を背負ったことは、あまり知られていません。会津で何が起きたかは会津若松城にまとめています。
【郡上八幡城地図】

