大田原城とは
大田原城は、下野国那須郡の要地、蛇尾川に臨む龍体山の丘陵に築かれた城である。天文十四年(1545)に大田原資清が築き、明治四年(1871)の廃藩置県まで、三百二十六年間ひとつの家が城主であり続けた。
大名の転封が当たり前だった江戸時代に、戦国以来の在地領主がそのまま同じ城に居続けた例は多くない。大田原城の性格は、この一点に集約される。

「史跡 大田原城跡」の標柱。城跡は龍体山の丘陵一帯に広がる(栃木県大田原市城山)
主家を出し抜いた家
大田原氏はもともと那須氏の家臣、いわゆる那須七党の一つである。資清は町島の水口から本拠をこの地に移し、城を築いた。
転機は天正十八年(1590)の小田原征伐だった。主家の那須氏が参陣をためらうなか、大田原氏はいち早く豊臣秀吉のもとへ参じて所領を安堵される。主家が改易される一方、家臣だった家が大名として残った。関ヶ原でも徳川方に付き、以後幕末まで大田原藩一万一千余石として続く。
近隣の栃木城の皆川広照も同じように立ち回って本領を安堵されたが、皆川氏は十八年で改易された。同じ「早く動いた家」でも、その後の三百年が分かれている。

「大田原城之図」と城跡の解説板。本丸・二の丸・三の丸に加え北曲輪・西曲輪・馬場が描かれる
那須七党という枠組み
大田原氏を理解するには、那須という土地の仕組みを見ておくとよい。
那須地方には、宗家の那須氏を中心に、大田原・大関・千本・芦野・伊王野・福原・那須といった一族と有力家臣が並び立っていた。これを那須七党(那須七騎)と呼ぶ。宗家が絶対的な権力を持つのではなく、独立性の高い家々が連合して那須を支えるという形である。
この構造は、外から強い勢力が来たときに弱い。宗家が判断を誤れば全体が沈むが、逆に言えば個々の家が別々の判断を下すこともできた。天正十八年に大田原氏が単独で秀吉のもとへ走れたのは、もともと宗家に縛られない立場だったからである。
結果として、那須では宗家が改易され、家臣筋だった大田原氏と大関氏が大名として幕末まで残った。連合の緩さが、宗家を滅ぼし、分家を生き延びさせた。下野の武士社会の性格が、ここによく出ている。
奥州街道を押さえる城
案内板は城の規模を明記している。東西210メートル、南北327メートル、面積9.1ヘクタール。本丸・二の丸・三の丸に区画され、そのほかに北曲輪と西曲輪、馬場、作事場などを備え、「築城法にかなった防御を第一とした要塞の地」と評されている。
この城が重視されたのは、奥州街道を押さえる位置にあったからである。慶長五年(1600)、関ヶ原を前にした徳川家康は、奥羽の情勢を睨んでこの地を重視し、城の補修を命じた。上杉景勝への備えである。
さらに三代将軍家光は寛永四年(1627)、常時玄米千石を城中に貯蔵させ、奥州への鎮護とした。一万石そこそこの小藩の城に、幕府が兵糧を置いた。大田原城は大田原氏の城であると同時に、幕府の前線倉庫でもあったことになる。

本丸と二の丸を隔てる空堀。深く切り込まれた谷が今もはっきり残る
実際に歩くと、この城が土でできていることがよく分かる。深い空堀が曲輪を切り分け、土塁が縁を固める。壬生城のような御殿の城でも、彦根城のような石垣の城でもない。戦国の造りのまま、江戸を通して使い続けられた城である。
火薬庫の爆発が、城を救った
その造りが最後に試されたのが、慶応四年(1868)の戊辰戦争だった。
大田原藩は新政府方に付き、城は西軍の軍事拠点となる。当然ながら旧幕府方の攻撃を受けた。案内板はその顛末をこう記している。東軍に手薄なところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬがれた、と。
攻め寄せる側から見れば、城内で突然の大爆発が起きたことになる。守る側の被害も甚大だったはずだが、結果として城は落ちなかった。事故が城を救ったという例は、そう多くない。三百年を戦わずに過ごした城の、最初で最後の実戦だった。
文政八年(1825)に火災で焼失し、翌年に造営し直した経緯もある。この城は火に二度、運命を変えられている。
大蔵大臣から、町へ
明治五年(1872)、城は兵部省に引き渡されて取り壊された。三百二十六年の役目がここで終わる。
その後の経緯が少し変わっている。明治十九年、城跡は長野県出身の渡辺国武の所有となった。のちに大蔵大臣を務めた人物である。そして昭和十二年、その嗣子で司法大臣を務めた渡辺千冬が、これを大田原町に寄贈した。

「大田原城址公園」の石柱。寄贈を受けて公園として整備された
城跡は公園として整備され、市民の憩いの場となった。戦国の在地領主が築き、幕府が兵糧を預け、戊辰の砲火をくぐり、大臣の手を経て町のものになる。一つの丘の来歴としては、ずいぶん密度が高い。
大田原城の現地写真







大田原城・場所・アクセス
〒324-0056 栃木県大田原市城山二丁目
JR宇都宮線「西那須野駅」からバス、または「那須塩原駅」から車で約20分。東北自動車道 西那須野塩原インターから車で約15分。城山公園として開放され、駐車場がある。
見どころは本丸跡と、曲輪を切り分ける空堀・土塁である。春は桜の名所として知られる。案内板の「大田原城之図」で曲輪の配置を頭に入れてから歩くと、起伏の意味が読み取れる。
