妖刀村正とは|唐沢寿明が演じる白雲斎が上田合戦の褒美にもらった刀 ─ 徳川に祟った伝説は本当か、真田幸村と村正の伝承|ドラマ『真田十勇士』第1話

燭台の灯りに刃が妖しく光る、刀掛けに置かれた日本刀(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 村正は、伊勢国桑名(いまの三重県桑名市)で活躍した刀工の一派が作った刀です。切れ味の鋭さで知られ、戦国時代には三河の武士たちのあいだでも広く使われていました
  • 江戸時代には、家康の祖父・清康、父・広忠、長男・信康の不幸に村正がかかわったとされ、「徳川家に祟る妖刀」と語られるようになりました。ただし家康自身も村正を持っていたことがわかっており、祟りの話の多くは後世に脚色されたものと考えられます
  • 岩本照さん主演のドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第1話では、唐沢寿明さん演じる白雲斎が、慶長5年(1600)の第二次上田合戦の褒美として受け取った村正を、弟子の猿飛佐助(岩本照さん)に託す場面が描かれました
  • 真田幸村(信繁)が家康を討つために村正を帯びていた、という伝承もあり、ドラマの村正はこの「真田と村正」の物語を下敷きにしていると考えられます

10月23日(金)に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話で、猿飛佐助(岩本照さん)の師・白雲斎(唐沢寿明さん)が大切に持っていたのが、「徳川に不幸をもたらす」といわれる妖刀・村正でした。慶長5年(1600)の上田合戦で真田のために働いた褒美として受け取ったという、この刀はどんな刀なのでしょうか。この記事では、村正とはどんな刀か、なぜ「徳川に祟る」といわれるようになったのか、そしてドラマで描かれた上田合戦の場面を史実と見くらべます。

目次

村正とは ─ 伊勢桑名の刀工が作った刀

村正は、ひとりの刀の名前ではなく、伊勢国桑名で室町時代の後半から戦国時代にかけて活躍した刀工の一派、とその作った刀の名前です。「千子村正」とも呼ばれ、何代にもわたって刀を作りました。鋭い切れ味で実戦向きの刀として評判が高く、伊勢と海をはさんで向かい合う三河や尾張の武士たちのあいだでも、広く使われていたと考えられています。

なぜ「徳川に祟る妖刀」と呼ばれたのか

村正が「妖刀」と呼ばれるようになったのは、徳川家の人びとの不幸に、たびたび村正がかかわったと語られてきたからです。よく挙げられる話をまとめると、次のようになります。

徳川家の人物 村正にまつわる話(伝承)
松平清康(家康の祖父) 天文4年(1535)、尾張の守山の陣中で、家臣の阿部弥七郎に斬られて亡くなる(守山崩れ)。その刀が村正だったとされる
松平広忠(家康の父) 家臣に村正の脇差で傷を負わされたとされる
松平信康(家康の長男) 天正7年(1579)に切腹を命じられたとき、介錯に使われた刀が村正だったとされる
徳川家康 村正の小刀や槍で手を傷つけたことがあるとされる

祖父、父、子、そして自分自身と、四代にわたって村正で不幸に見舞われた家康は、村正を嫌い、家中で持つことを禁じた ─ こうした話が江戸時代に広まり、のちに歌舞伎などの題材にもなって、「村正は徳川に祟る妖刀」というイメージが定着しました。

▽ よく語られる話
家康は村正を憎み、徳川家では村正を持つことが固く禁じられていた。
▼ 史実ではこうです
家康自身が村正の刀を持っていて、遺品として伝わったことがわかっています。三河の近くの伊勢で作られた村正は、もともと徳川家のまわりで広く使われていた刀で、不幸の場にたまたま村正があったとしても不思議ではありません。祟りの話の多くは、江戸時代に入ってから脚色されて広まったものと考えられています。

真田幸村と村正の伝承

「徳川に祟る刀」という評判は、やがて徳川に逆らった人びとの物語とも結びついていきます。そのひとつが、真田幸村(信繁)が家康を討つために村正を帯びていた、という伝承です。大坂の陣で家康の本陣に迫った幸村が、徳川に祟る刀を身につけていた ─ という話は、物語としてはいかにもふさわしく、江戸時代の人びとに好まれました。ただし、信繁が実際に村正を持っていたことを示す確かな史料はありません(真田幸村(信繁)とは何者か)。

ドラマで白雲斎が真田から村正を褒美にもらったという設定は、この「真田と村正」の伝承を下敷きにしたものと考えられます。第1話では、白雲斎がこの村正を弟子の佐助に託す場面も描かれました。徳川に祟るといわれる刀が、のちに家康と戦うことになる佐助の手に渡る ─ 史実の伝承では幸村が帯びていたとされる村正を、ドラマでは佐助が受け継ぐという筋立てで、この刀がこれからの物語の鍵になりそうです。このあと白雲斎は、大御所・家康の誘いを断ったために服部半蔵に討たれ、佐助に「九度山へ向かえ」と言い残して息を引き取ります。第1話の最後では、九度山にたどり着いた佐助が十勇士に取り押さえられ、幸村がその腰の村正に気づくと、佐助は「死んだじじいの形見だ」と答えました。かつて真田が白雲斎に与えた刀が、白雲斎の弟子と幸村を結びつけたのです。

ドラマ第1話の上田合戦は史実どおりか

第1話では、白雲斎が村正を受け取るきっかけとなった慶長5年(1600)の第二次上田合戦も描かれました。関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の大軍を、真田昌幸と信繁(幸村)が上田城で迎え撃ち、足止めした戦いです(第一次・第二次上田合戦 ─ 真田昌幸はなぜ二度も徳川を退けたのか)。ドラマの描写と史実をくらべると、次のようになります。

崖の上の城の櫓から、野に陣を連ねて足止めされた大軍を見下ろす城兵(イメージイラスト)
上田城の前で足止めされる大軍のイメージ(イラスト)
ドラマで描かれたこと 史実では
徳川の大軍は真田のおよそ20倍 秀忠の軍は約3万8000、上田城の真田勢は2500ほどとされ、15倍前後の差がありました
川の水を使った「鉄砲水」 上田の神川の堰を切って徳川勢を押し流したという話が、軍記物などに伝わります。どこまで史実かははっきりしません
信繁(幸村)の奇襲 昌幸と信繁が城から打って出て徳川勢を翻弄したことは、上田合戦の大きな見どころとして語られてきました
海野六郎の弓 海野六郎は物語の真田十勇士の一人で、上田合戦で活躍した史料はありません。ドラマの創作です

ドラマの上田合戦では、霧隠才蔵、由利鎌之助、怪力の三好伊佐と弟の三好清海、望月六郎、穴山小助、根津甚八、海野六郎といった十勇士がそろって真田方として戦い、秀忠の軍勢は大崩れとなって関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。史実でも秀忠は上田で足止めされて本戦に遅れ、父の家康から厳しく叱責されたと伝わりますが、十勇士はあくまで物語の人物で、上田合戦に加わったという史料はありません。ドラマでは、十勇士が十四年前の上田合戦から真田に仕えていた、という設定になっているようです。

秀忠の軍は上田城を落とせないまま日を重ね、9月15日の関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。真田にとっては大きな勝利でしたが、本戦で西軍が敗れたため、昌幸と信繁はこのあと死罪を言い渡され、信之らの嘆願で命を救われて九度山へ流されることになります(真田昌幸と幸村はなぜ命を救われたのか/なぜ九度山に流されたのか)。

桜の季節の上田城跡、東虎口櫓門と石垣
上田城跡の東虎口櫓門(長野県上田市)。昌幸と信繁はこの城で秀忠の大軍を退けました

よくある疑問

Q. 村正とはどんな刀ですか?
A. 伊勢国桑名で活躍した刀工の一派(千子村正)が作った刀です。鋭い切れ味で知られ、戦国時代には三河や尾張の武士にも広く使われました。

Q. 村正は本当に徳川家に祟ったのですか?
A. 家康の祖父や父、長男の不幸に村正がかかわったという話はありますが、どこまで史実かはわかりません。家康自身も村正を持っていたことがわかっており、祟りの話の多くは後世の脚色と考えられます。

Q. 真田幸村は村正を持っていたのですか?
A. 家康を討つために村正を帯びていたという伝承はありますが、確かな史料はありません。

Q. ドラマで白雲斎が持っていた村正は、どこから来たのですか?
A. 第1話では、慶長5年(1600)の第二次上田合戦で真田のために働いた褒美として受け取ったことが描かれました。白雲斎を演じるのは唐沢寿明さんです。

Q. 第二次上田合戦の兵力差はどれくらいでしたか?
A. 秀忠の軍は約3万8000、上田城の真田勢は2500ほどとされ、15倍前後の差がありました。

まとめ

村正は伊勢桑名の刀工が作った切れ味の鋭い刀で、徳川家の人びとの不幸にかかわったという話から、江戸時代に「徳川に祟る妖刀」と語られるようになりました。家康自身も村正を持っていたことから、祟りの話は後世の脚色が多いと考えられますが、その評判は真田幸村の伝承とも結びついていきます。ドラマで白雲斎が上田合戦の褒美として受け取った村正が、佐助と幸村の物語にどうかかわっていくのか、注目です。

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