『豊臣兄弟!』で土平ドンペイさんが演じる宮部継潤は、ひとことで言えば僧侶から大名になった人です。
比叡山で修行した善祥坊という僧が、浅井の家に仕え、秀吉の調略に応じて織田方へ移り、やがて因幡鳥取の城主になります。それでいて武将になったあとも僧の姿のまま、生涯「法印」を名乗り続けました。そして根白坂の戦いでは島津の夜襲を一万の兵で受け止め、秀吉から「日本無双の働き」という感状をもらっています。
ドラマで万丸(のちの豊臣秀次)を人質に取った場面も、この人の話です。
- 僧侶だった継潤が、どうやって武将になったのか
- 「宮部」という名はどこから来たのか
- なぜ秀吉の甥・万丸(秀次)を養子に迎えたのか
- 鳥取城主としての石高と、その後
- 根白坂で「日本無双」と言われた働きとは何だったのか
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
比叡山の僧・善祥坊が、武将になるまで
継潤は近江の生まれと伝わります。父は土肥真舜とされますが、くわしいことは分かっていません。幼くして比叡山に入り、善祥坊という僧名を持ちました。
「宮部」という名は、近江浅井郡の宮部村(いまの長浜市)にある宮部清閑寺にかかわる名だとされます。つまり生国の地名が、そのまま名乗りになった形です。
当時の比叡山や大寺は、祈りの場であると同時に、荘園を持ち、僧兵を抱える勢力でもありました。坊官とはで見たように、僧でありながら家を継ぎ、兵を動かす人びとは珍しくありません。継潤もその世界から出てきています。

万丸を人質に ─ 秀次を養子に迎えた意味
継潤ははじめ浅井長政に仕えていました。それが元亀二年十月、秀吉の調略に応じて織田方へ移ります。羽柴秀吉の与力という形でした。
このとき動いたのが、養子の縁組です。秀吉は姉の子である万丸(のちの豊臣秀次)を、継潤の養子として差し出しました。元亀二年ごろのこととされます。
秀吉がどれだけ養子を出し入れしたかは秀吉の養子たちにまとめています。継潤の件は、その最初期の一つでした。
鳥取城主へ ─ 僧形のままの大名
織田方に移ってからの継潤は、但馬・因幡方面で働きます。天正九年の鳥取城の渇え殺しのあと、但馬の豊岡城から因幡の鳥取城へ移されました。

石高は資料によって幅があります。上美・法美・八上・高草の四郡で四万三千余石とするものと、因幡・但馬の両国で五万石余とするものがあり、時期によって変わったとみられます。
この人の面白いところは、大名になっても僧の姿を変えなかったことです。中務卿法印を称し、史料には「宮部法印」と出てきます。還俗して武士らしい名を名のるのが普通のなかで、継潤は僧であることをそのまま肩書にしました。

根白坂 ─ 「日本無双の働き」
継潤の名が一番大きく残るのが、天正十五年四月十七日の根白坂です。
秀長は島津方の高城を囲み、救援が通る根白坂に砦を築きました。その守りを任されたのが継潤で、兵はおよそ一万。空堀を掘り、板塀を立てて固めます。
四月十七日の夜半、島津軍が総力で突撃してきました。継潤は出ずに、追わずに、守り抜きます。島津の得意な釣り野伏せは、相手が追ってこなければ成り立ちません。砦が動かなかったことで、島津は正面からぶつかるしかなくなりました。
やがて藤堂高虎と戸川達安が横から入り、小早川・黒田の軍が外から押して、島津は大将格を失って退きます。この一夜で九州攻めの勝敗が決まりました。
秀吉は感状に「日本無双の働き」と書き送っています。攻めた働きではなく、守り抜いた働きに対する言葉でした。この戦いで秀長が何を選んだかは根白坂の戦いで秀長は何をしたのかにまとめています。
同じ夜、軍監の尾藤知宣は継潤への救援に反対し、のちに所領を失いました。砦を守り抜いた者と、救援を止めた者。二人の明暗が、この一夜で分かれています。
秀吉の死の翌年に ─ その後の宮部家
継潤は慶長四年、七十二歳で亡くなりました。秀吉が死んだ翌年にあたります。豊臣政権が揺れはじめる直前に世を去ったことになります。
跡を継いだ子の代で、宮部家は鳥取を離れました。鳥取城に在城したのは二代までで、関ヶ原を境に家は大名の座を失っています。城はその後、池田家のものとなりました。鳥取城跡に、城としてのその後をまとめています。
追放されて斬られた神子田正治や尾藤知宣と比べると、継潤は天寿をまっとうした側です。秀吉のもとで長く生きた古参は、むしろ珍しいほうでした。
『豊臣兄弟!』での宮部継潤
放送回ごとの史実は第13〜17回の史実解説と全話一覧でたどれます。
この先、九州攻めが描かれるなら、根白坂で砦を守り抜く場面が最大の見せ場になります。秀長の指揮と、継潤の守りと、尾藤知宣の進言が交差する一夜です。
よくある疑問
継潤について、根白坂の戦いとあわせてよく聞かれることをまとめます。
Q. 宮部継潤はなんと読みますか。
A. みやべ けいじゅんです。僧名は善祥坊(ぜんしょうぼう)、のちに中務卿法印を称しました。
Q. 継潤は豊臣秀次の養父だったのですか。
A. 一時期そうでした。元亀二年ごろ、秀吉が調略の一環として甥の万丸を継潤の養子に出しています。のちに秀次は三好康長の養子へ移りました。
Q. 僧なのに武将だったのですか。
A. 当時の大寺は荘園と僧兵を持つ勢力でもあり、僧の身で兵を動かす人は珍しくありませんでした。継潤は大名になったあとも僧形を改めず、法印を名乗り続けています。
Q. 根白坂での働きはどう評価されたのですか。
A. 秀吉は感状に「日本無双の働き」と記しました。攻めてではなく、砦を守り抜いたことへの評価です。
まとめ
- 宮部継潤は近江の生まれで、比叡山で修行した善祥坊という僧。「宮部」は浅井郡宮部村の清閑寺にちなむ名
- はじめ浅井長政に仕え、元亀二年十月に秀吉の調略に応じて織田方へ移った
- そのとき秀吉は甥の万丸(のちの豊臣秀次)を養子として差し出している。人質を取ったというより、秀吉が血縁を預けた形
- 天正九年の鳥取城の戦いののち、但馬豊岡城から因幡鳥取城へ。石高は四万三千余石とも、因幡・但馬で五万石余とも伝わる
- 大名になっても僧形を改めず、中務卿法印を称した
- 天正十五年の根白坂で、約一万の兵で砦を守り抜き、秀吉から「日本無双の働き」の感状を受けた
- 慶長四年、七十二歳で死去。秀吉の死の翌年にあたる。宮部家は二代で鳥取を離れた
