前野長康(まえの・ながやす)は、蜂須賀正勝(小六)と並んで、木下藤吉郎のころから秀吉を支えた尾張の武将です。通称は将右衛門(しょうえもん)で、『豊臣兄弟!』では渋谷謙人さんが演じています。墨俣の築城から小谷攻め、播磨攻めまで秀吉とともに戦い、最後は但馬出石の城主として十一万石ともいわれる大名にまでなりましたが、1595年、豊臣秀次の事件に巻き込まれ、息子とともに命を落としました。
この記事では、長康の歩みを織田家の時代から順にたどり、与えられた領地と石高、そして秀次の宿老として切腹するまでを見ていきます。同じ道を歩いた蜂須賀正勝については 蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代 で詳しく書いています。
- 長康は尾張丹羽郡前野村の土豪の家に生まれ、正勝と義兄弟の仲といわれるほど近い間柄で秀吉を支えました
- 墨俣、金ヶ崎の退き口、横山城の在陣、小谷攻め、三木攻めを経て、1585年に但馬出石五万三千石の城主となり、のちに十一万石まで加増されたとされます
- 秀次の宿老として付けられ、1595年の秀次事件で嫡男の景定が死を命じられると、長康もその責めを負って切腹しました
前野家の出自:尾張丹羽郡前野村の土豪
長康は1528年、尾張国丹羽郡の前野村(いまの愛知県江南市)に生まれました。父の前野宗康は、尾張上四郡を治めた岩倉の織田氏に仕えた武士で、前野家は木曽川の流域に根を張る土豪のひとつでした。幼名は喜太郎・小太郎、元服して小右衛門と名のり、のちに将右衛門と改め、官途は但馬守を名のっています。
同じ川筋の坪内氏とは深い縁があり、長康が坪内勝定の娘婿だったとする説と、実の子だったとする説があります。蜂須賀正勝とは若いころから行動をともにし、義兄弟の仲だったといわれます。蜂須賀家の成り立ちと、正勝のまわりにいた人びとについては 蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代 で紹介しています。
信長に仕え、藤吉郎の組へ
1558年ごろ、岩倉の織田氏が信長に敗れると、長康は信長に仕えるようになったとされます。やがて木下藤吉郎の下につき、1564年ごろからの美濃攻めでは、木曽川沿いの城の調略や舟の確保に働いたと伝えられています。川筋の土豪として舟と人を動かせることが、藤吉郎にとって何よりの力でした。
同じ組にいた蜂須賀正勝の織田家時代と並べて読むと、二人の歩みがほとんど重なっていることがわかります。
墨俣(1566年)
1566年ごろ、藤吉郎が長良川西岸の墨俣に拠点を築いたとき、長康は正勝らとともにこれに加わったとされます。上流で切り出した材木を川に流し、人足を集めて短い期間で砦を組み上げるという仕事は、川筋の土豪がいなければできませんでした。ただし「一夜で城が建った」という話は後世にふくらんだものと考えられています。墨俣の実像は 墨俣城(墨俣一夜城) で詳しく見ています。
金ヶ崎の退き口と横山在陣(1570年)
1570年、信長が越前の朝倉氏を攻めた際、浅井長政の離反で退却を迫られると、殿(しんがり)を務めた秀吉の軍勢の中に長康もいました。越前からの撤退戦を生き延びた長康は、同じ年の姉川の戦いのあと、秀吉が浅井方の横山城を落として城番に入ると、ともに横山城に詰めて小谷城の浅井を見張ります。
翌1571年には、琵琶湖の水運を押さえて佐和山城への兵糧の道を断ち、城主の磯野員昌を開城に追いこむ働きをしたとも伝えられます。川の土豪が、湖でもその力を発揮したわけです。金ヶ崎城と横山城については 金ヶ崎城 と 横山城 で解説しています。
小谷攻め(1573年)
横山城を拠点にした浅井攻めは三年におよび、1573年に小谷城が落ちて浅井氏が滅びます。秀吉は北近江をまかされて長浜城主となり、長康も秀吉の家臣団の古参として重きをなしていきました。小谷攻めの経過は 小谷城跡 と 豊臣兄弟!第13〜17回 史実解説 で扱っています。
播磨・三木城主から但馬出石へ
秀吉が中国攻めに乗り出すと、長康は播磨の三木城攻めに加わり、別所氏が滅んだあと三木城をまかされて城主となりました。1582年の本能寺の変のときも三木城にいて、中国大返しの際は播磨の後方を固め、山崎の戦いでは秀長の軍に加わったとされます。三木合戦については 三木城 と 豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説 をご覧ください。

賤ヶ岳、小牧・長久手、四国攻めと秀吉の戦いに従ったあと、1585年閏8月、秀長が大和へ移ったあとの但馬出石に五万三千石(一説に六万石)で移され、有子山城の城主となりました。1588年の聚楽第行幸では行列の先導役を務め、1590年の小田原攻め、1592年からの朝鮮出兵にも加わり、その功で十一万石に加増されたと伝えられています。出石城については 出石城(有子山城) で紹介しています。
与えられた領地と石高
| 時期 | 領地・城 | 石高 |
|---|---|---|
| 1558年ごろ | 尾張丹羽郡の五日市場(信長から) | 四十五貫文と伝わる |
| 1580年ごろ | 播磨・三木城 | 城主(石高ははっきりしない) |
| 1585年閏8月 | 但馬・出石(有子山城) | 五万三千石(一説に六万石) |
| 1592年以降 | 但馬出石を中心に加増 | 十一万石とされる |
| 1595年 | 秀次事件に連座 | 領地を失う |
尾張の一土豪が、秀吉のもとで十万石を超える大名にまでなったわけで、蜂須賀家が阿波一国を得たのと並ぶ、古参の家臣の出世の典型といえます。
同じ年に正勝は阿波を辞退しています。天正十三年の論功行賞をどうぞ。
秀次の宿老に:一度は断ったという話
1591年、秀吉は甥の豊臣秀次に関白の座を譲り、長康はその秀次の宿老、後見役として付けられました。秀吉の古参の中でも年長で、聚楽第の造営にもかかわった長康は、若い関白を支える重しとして選ばれたのでしょう。
このとき長康は、老齢などを理由に一度は辞退したとも伝えられています。それでも秀吉の命には逆らえず、嫡男の前野景定も秀次の側近として仕えることになりました。父と子がそろって秀次の家中に入ったことが、のちに二人の運命を決めることになります。秀次が関白になるまでの歩みは 秀吉と秀次はどういう関係だったのか で扱っています。

秀次事件と切腹(1595年)
1593年に秀吉に実子の秀頼が生まれると、秀次の立場は急に危うくなります。1595年7月、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山へ追われ、そこで切腹しました。長康は秀次の無実を訴えて取りなそうとしたとされますが、かえって秀次に近い者と見なされ、身柄を中村一氏に預けられます。
秀次の側近だった嫡男の景定に自害が命じられると、長康も子の罪の責めを負い、伏見で切腹しました。数え年で六十八歳だったと伝えられています。墨俣から三十年近く秀吉を支え続けた古参の家臣が、秀吉の命によって最期を迎えたことになります。秀次事件で誰が罪に問われたのかは 秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか と 秀吉に処刑・切腹させられた人びと でまとめています。
辞世として「限りある身にぞあづさの弓はりて とどけ参らす前の山々」という歌が伝わっていて、「前の山々」に前野の名と故郷への思いを重ねたものと読まれています。
『武功夜話』と前野家
長康の名がいまこれほど知られているのは、『武功夜話』の影響が大きいといえます。前野家の子孫に伝わったとされるこの記録は、長康や正勝ら川筋の土豪の活躍を生き生きと描いていて、戦国ドラマや小説の種にもなってきました。一方で、言葉づかいや地名、日付に後の時代のものと思われる点があることから、史料としての扱いには注意が必要だとされています。
確かなところとして言えるのは、長康が尾張の川筋の土豪から身を起こし、秀吉の天下取りを最初から支え、十万石を超える大名になりながら、秀吉の後継ぎ問題のなかで命を落としたということです。
よくある質問
Q. 前野長康の読み方と通称は?
A. 「まえの・ながやす」と読みます。通称は小右衛門、のちに将右衛門で、官途は但馬守です。
Q. 前野長康の最終的な石高は?
A. 1585年に但馬出石五万三千石(一説に六万石)で城主となり、のちに十一万石まで加増されたとされます。
Q. なぜ前野長康は切腹したのですか?
A. 秀次の宿老として付けられていたうえ、嫡男の景定が秀次の側近だったため、1595年の秀次事件で景定に自害が命じられ、長康もその責めを負って切腹しました。
義兄弟だった蜂須賀正勝は、同じ天正十三年に逆の選択をしています。二人の結末はどこで分かれたのかもあわせてどうぞ。
まとめ
- 前野長康は尾張丹羽郡前野村の土豪の家に生まれ、蜂須賀正勝とともに藤吉郎のころから秀吉を支えました
- 墨俣、金ヶ崎の退き口、横山在陣、小谷攻め、三木攻めを経て、但馬出石五万三千石の城主となり、のちに十一万石とされるまで加増されました
- 秀次の宿老として付けられ、1595年の秀次事件で嫡男の景定とともに命を落としました
蜂須賀正勝が秀吉の天下を見届けて世を去ったのに対し、長康は秀吉の天下の内側で起きた事件に倒れました。同じ木曽川の土豪として出発した二人の最期の違いは、豊臣政権が晩年に抱えた危うさをよく映しています。

