柴田勝家とは:瓶割り柴田の実像と、北ノ庄城で迎えた最期 賤ヶ岳の敗因

柴田勝家公の像を横から
この記事のポイント

  • 柴田勝家はもともと信長の弟・信行に付けられた家老で、信長とは一度戦って負けた側だった
  • 「瓶割り柴田」の逸話は後世の武辺話に由来するが、勝家の人物像を決定づけた
  • 越前北ノ庄では刀狩や用水開削など、武辺一辺倒では説明できない領国経営を行っている
  • 賤ヶ岳の敗因は佐久間盛政の突出と前田利家の離脱だが、その前に「北陸に置かれた」という配置そのものが効いていた

柴田勝家という武将は、たいてい「秀吉に負けた側」として語られる。猪突猛進の古武士で、機を見るに敏な秀吉に出し抜かれた男。大河ドラマでもそう描かれやすい。

だが織田家臣団のなかで最も長く信長に仕え、最も広い領国を任されたのはこの人である。負けた理由を性格に求めてしまうと、かえって賤ヶ岳の本質が見えなくなる。

柴田勝家像

北ノ庄城址・柴田神社に立つ柴田勝家像(福井県福井市)

目次

信長に刃を向けた家老

勝家は尾張の生まれで、織田信秀に仕えた。信秀の死後、彼が付けられたのは嫡男の信長ではなく、弟の信行(信勝)である。弘治二年(1556)の稲生の戦いでは信行方の主力として信長と正面から戦い、敗れている。

助命された勝家はその後、信行が再び謀反を企てた際、それを信長に告げた。ここで彼は主君を替えたのではなく、織田家の当主が誰であるかという判断を下している。この一件以降、勝家は死ぬまで織田家中にとどまり続けた。信長と最も長く付き合った家臣は、実は一度その信長と戦った男だったことになる。

「瓶割り柴田」はどこまで本当か

元亀元年(1570)、近江の長光寺城に入っていた勝家は、六角義賢の軍に囲まれ水の手を断たれた。籠城の限界を悟った勝家は、残された水瓶を将兵の前で割り、退路を断って打って出て勝った——というのが「瓶割り柴田」の由来である。

ただしこの話が載るのは『武将感状記』のような江戸期の逸話集で、同時代の記録に見えるものではない。「かかれ柴田」の異名とあわせて、勝家像は後世にかなり脚色されている。とはいえ、脚色にも選ばれ方がある。誰も勝家を「策を弄した男」としては描かなかった。同時代の人間が彼をどう見ていたかは、そこに表れている。

北ノ庄で何をしていたのか

天正三年(1575)、越前の一向一揆を平定した信長は、勝家に越前四十九万石を与えた。北陸方面軍の司令官である。勝家は足羽川と吉野川の合流点に北ノ庄城を築き、宣教師ルイス・フロイスがその天守の壮麗さを書き残すほどの城を仕上げた。

北ノ庄城の石垣の根石

発掘で姿を現した北ノ庄城の石垣の根石。堀跡とともに保存展示されている

見落とされがちなのは、この時期の勝家が施政者として働いていることである。一向一揆の再発を防ぐため領内から武器を集めており、秀吉の刀狩に十年以上先行している。集めた鉄を九十九橋の資材に転用したという伝承も残る。福井平野に水を引いた芝原用水も、勝家の代の事業と伝えられる。

武辺者の代名詞のように語られる人物が、実際にやっていたのは検地であり、治水であり、橋の普請だった。北ノ庄城を訪ねると、そのことが石垣の残り方から見えてくる。

賤ヶ岳の前に、勝負はついていた

天正十年(1582)六月、本能寺の変が起きたとき、勝家は越中の魚津城を攻めていた。変報を受けて引き返そうとしたが、上杉方が背後にいる状況で北陸から畿内へ戻るのは容易ではない。山崎で光秀を討った秀吉に、勝家は完全に遅れを取った。

清須会議で勝家は三法師ではなく信孝を推し、退けられる。この会議で彼が得たのは、お市の方との婚姻と、長浜の地であった。そして冬が来る。北陸は雪に閉ざされ、越前の軍勢は半年近く動けない。

翌天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、直接の敗因となったのは佐久間盛政の突出である。大岩山の砦を抜いた盛政は、勝家の再三の撤退命令に応じず前線に留まった。そこへ秀吉が美濃から驚異的な速度で戻り、さらに前田利家が戦線を離れる。

ただし、これらはいずれも最後の三日間の話である。信長が勝家を北陸に、秀吉を中国に置いた時点で、本能寺後の速度勝負の順位はほぼ決まっていた。畿内に近く海路も使える中国方面と、冬季に半年封鎖される北陸方面。勝家は遅かったのではなく、動ける季節を待つしかなかったのである。

大河で描かれない話

天正十一年四月二十四日、北ノ庄城は落ちた。勝家はお市の方とともに城に火を放って自刃する。享年は六十二前後と見られる。三人の娘は城から出され、のちにお市の方と浅井三姉妹の物語へとつながっていく。

あまり知られていないのが、この落城の直前に勝家が開いた宴である。城内の者に酒を振る舞い、最期の夜を過ごしたと伝えられる。辞世として伝わるのは「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。四月とはいえ旧暦で、季節はすでに夏に入ろうとしていた。

北ノ庄城址の石碑

北ノ庄城址に建つ石碑。現在は柴田神社の境内として整備されている

よくある質問

Q. 柴田勝家の生年はいつですか。
A. 確実な記録がなく、大永六年(1526)前後とする説が広く採られています。没年から逆算した推定で、五年ほどの幅があります。

Q. 「瓶割り柴田」は史実ですか。
A. 江戸期の逸話集に載る話で、同時代史料の裏づけはありません。ただし勝家がそう語られ続けたこと自体が、同時代の人物評を反映しています。

Q. 北ノ庄城の天守は九重だったのですか。
A. 九重とする記述は後世のもので、実際の層数は分かっていません。フロイスが壮麗さを書き残していることから、相当な規模の天守があったこと自体は確かと見られます。

Q. 勝家とお市の方の結婚は政略でしたか。
A. 清須会議後の織田家中の力関係を反映した婚姻であることは間違いありません。ただしお市の側にも選択の余地があったとする見方があり、単純な道具ではなかった可能性があります。

ゆかりの地をめぐる

  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 勝家の居城。現在は柴田神社と北の庄城址公園として整備され、石垣の根石と堀跡が見られる
  • 福井城(福井県福井市)… 北ノ庄城の跡地に結城秀康が築いた城。天守台と「福の井」が残る
  • 長浜城(滋賀県長浜市)… 清須会議で勝家の領となったが、実際には維持できなかった城
  • 小谷城(滋賀県長浜市)… お市の方が最初の落城を経験した城
  • 前田利家はなぜ賤ヶ岳で退いたのか… 勝家の敗北を決定づけた与力の離脱を読み解く

人物の詳細は日本の武将ガイドの柴田勝家もあわせてご覧ください。

まとめ

柴田勝家を「秀吉に出し抜かれた古い男」として片づけると、越前で彼がやっていた仕事が丸ごと視野から落ちる。刀狩も、用水も、橋も、次の時代に受け継がれる型だった。

そして賤ヶ岳の敗北は、性格の問題ではなく配置の問題だった。信長は最も信頼する宿老を、最も動きにくい方面に置いた。それは信長が生きているあいだは合理的な人事であり、信長が死んだ瞬間に致命傷へ変わった。勝家の生涯は、組織の設計が個人の運命をどこまで決めるかという話でもある。

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