観音寺城跡:安土城より二十年早く石垣を積んだ千の曲輪と、六角父子が戦わずに捨てた理由

観音寺城:織田信長の上洛戦により落城 佐々木源氏の末裔六角義賢・義治の居城 観音寺城

観音寺城は、近江の守護・六角氏が繖山(きぬがさやま)の山ぜんたいに築いた巨大な山城です。曲輪の数は千を超えるといわれ、規模でいえば日本でも最大級。しかも安土城より二十年ほど早い時期から石垣を多用していて、山城に石を積むという発想の先駆けにあたります。ところがこの城、織田信長の上洛戦ではほとんど戦っていません。支城の箕作城が一日で落ちたと知ると、六角父子は本城を捨てて逃げてしまった。日本最大級の山城が、なぜ戦わずに空になったのか。その答えは石垣の厚さではなく、六角家の内側にありました。

この記事のポイント
  • 繖山の全山に曲輪が千以上。規模では日本最大級の山城
  • 安土城より二十年ほど早く、山城に石垣を大規模に用いていた
  • 当主の権力が家臣に制限され、分国法に当主が署名させられていた
  • 信長の上洛戦では、支城が落ちた時点で六角父子が城を捨てた
  • 信長が同じ湖東の安土に城を築くと、完全に廃城になった
目次

繖山を丸ごと城にする

観音寺城跡の山上から見下ろした近江平野

山上から見下ろした近江平野。田と町が広がり、その向こうに山並みが重なる。

城が築かれた繖山は標高四百三十メートルほどで、東山道(中山道)と琵琶湖の水運を同時に見下ろせる位置にあります。写真のとおり、山上に立てば近江の平野が端から端まで見わたせる。ここを押さえるということは、京へ向かう陸の道と、湖を渡る船の道をどちらも監視できるということでした。六角氏はこの山の尾根と谷に、数えきれないほどの平坦地を削り出して曲輪としています。その数は千を超えるとされ、山全体が城というより、山全体に家臣たちの屋敷が並ぶ山上の町といったほうが近い。守護の居館を中心に、重臣たちがそれぞれの曲輪に住みこんでいたと考えられていて、これは戦のときだけ籠もる詰城とはまったく別の発想で、同じ近江でも蒲生氏の日野城のような平地に構えた居城とくらべると、六角氏がいかに山そのものを本拠と考えていたかがわかります。

安土城より二十年早い石垣

観音寺城跡の曲輪に残る石垣

山中の曲輪に残る石垣。角がきちんと立ち、落ち葉に埋もれた平坦地を今も支えている。

日本の城の石垣といえば、織田信長の安土城が最初の本格的なものとして語られがちです。ところが観音寺城の石垣は、それより二十年ほど早い時期のものと考えられています。写真のように、山の斜面を削って出した平坦地の縁を、大きな石を積んで押さえている。土を削っただけの曲輪は雨のたびに崩れますが、石で押さえれば形が保たれ、上に建物を建てられる。この技術がなぜ近江で先に育ったのかというと、この地方に穴太(あのう)と呼ばれる石積みの職人集団がいたからです。比叡山の門前で寺院の石垣を積んでいた人たちで、のちに信長や豊臣の城をつくることになる穴太衆の源流にあたります。つまり安土城の石垣は、突然生まれた発明ではなく、すぐ隣の山ですでに試されていたものの延長線上にありました。信長がわざわざ湖東のこの地を天下の城の場所に選んだ理由のひとつも、そこにあったのかもしれません。

当主より家臣が強かった六角家

観音寺城跡に立つ「本城跡」の標柱

山中に立つ木の標柱。「本城跡」と墨で書かれていて、その先はただの林と平坦地になっている。

観音寺城を理解するうえで欠かせないのが、六角家の内側の事情です。六角氏は佐々木源氏の流れをくむ近江守護の名門でしたが、戦国期に入るころには当主の力が意外なほど弱く、重臣たちの合議で物事が決まるようになっていました。それを象徴するのが六角氏式目という分国法で、驚くべきことにこれは家臣たちが条文をつくり、当主の義賢・義治父子に署名させるという順序で成立しています。ふつう分国法は大名が家臣を縛るために出すものですから、逆立ちしているわけです。しかも義治は、家中で力を持っていた重臣の後藤賢豊を殺してしまい、これに怒った家臣たちが離反する騒動まで起こしました。写真の標柱が立つ「本城」も、そうした家臣の屋敷が並ぶ山の一角です。山全体に家臣が住むということは、裏を返せば、その家臣たちがそっぽを向いた瞬間に城の大半が空になるということでもありました。

なぜ戦わずに城を捨てたのか

観音寺城跡の山道と両側に残る石垣

山道の両側に石垣が残る。かつてここが門だったことを思わせる狭まり方で、右手の石積みは高く積み上がっている。

▽ よく語られる話

六角父子は臆病だったから、信長の大軍を見ただけで日本最大級の山城を捨てて逃げた。

▼ 史実ではこうです

臆病さの問題ではなく、構造の問題でした。観音寺城は山全体に家臣の曲輪が散らばる城です。全体を守るには、その家臣たちが一斉に自分の持ち場に入ってくれなければ成り立たない。ところが六角家は重臣の誅殺をきっかけに家中が割れており、信長が来たときには動員できる手勢がそろっていませんでした。支城の箕作城が一日で落ちたのは、その象徴です。守る人がいない広すぎる城は、広いことがそのまま弱点になる。城を捨てた判断は、むしろ現実的だったといえます。

父子はその後も近江の各地で抵抗を続けます。甲賀へ入り、鯰江城に拠って信長方と戦い、浅井氏とも連携しました。しかし観音寺城へ戻ることはついにできず、浅井が滅び、甲賀の拠点も失われると、六角父子は大名としての力を完全に失います。名門の守護家が一代で消えていく典型的な形でした。

安土城に引き継がれたもの

観音寺城跡の斜面に沿って続く石垣

斜面に沿って長く続く石垣。自然石を積み上げた古い形で、木の根が石のあいだに食いこんでいる。

信長は上洛を果たしたあと、観音寺城のある繖山のすぐ西、安土山に新しい城を築きました。直線でいえば数キロしか離れていません。同じ湖東の地で、同じように琵琶湖と街道を押さえ、同じように石垣を積む。ただし安土城は山全体に家臣を住まわせるのではなく、天主という一点に主君を置き、家臣は城下へ下ろしました。観音寺城が家臣の集合体としての城だったのに対し、安土城は一人の意思で動く城です。石垣という技術は受け継ぎ、権力の形だけを入れ替えた。観音寺城が廃城になったのは、建物が壊れたからではなく、この城が前提としていた武士のあり方そのものが終わったからでした。六角家に仕えていた蒲生家がのちに信長・秀吉のもとで松坂城を築く側へ回っていくのも、同じ流れの中の話です。

観音正寺と、山の名の由来

この城には、ほかの山城にはない同居人がいます。山の南側の中腹に建つ観音正寺で、西国三十三所の札所として古くから参詣者を集めてきた寺です。城の名が観音寺城なのも、この寺があったからでした。城と寺が同じ山に並び立つというのは、いまの感覚だと奇妙に思えますが、中世の日本では珍しくありません。寺は人と物と情報が集まる場所であり、石垣を積める職人とのつながりもある。守護がその隣に本拠を構えるのは、むしろ合理的な選択でした。いま城跡を歩くと、参詣の道と城の道がところどころで重なっていて、どこまでが寺でどこからが城なのか、境目がはっきりしません。その曖昧さこそ、この城が中世の城であることの証しです。

訪ね方と見どころ

所在地は滋賀県近江八幡市安土町。日本100名城の五十二番に選ばれています。JR安土駅から歩いて登るルートのほか、観音正寺の有料林道を車で上がって、そこから城域へ入る方法もあります。山の全域が城なので、すべてを見ようとすると一日では足りません。時間が限られているなら、まず本丸周辺の石垣、それから平井丸・池田丸といった重臣の名が付いた曲輪をたどるのがよいでしょう。名前のついた曲輪が家臣の名前だというところに、この城の性格がそのまま表れています。足元は落ち葉と石で滑りやすく、夏は草が深いので、歩きやすい靴と長袖で行ってください。下山したら、数キロ先の安土城跡まで足を伸ばすと、二十年の差がどれほどのものだったかを同じ日に見くらべられます。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

観音寺城跡・場所とアクセス

〒521-1331 滋賀県近江八幡市安土町石寺

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