弘前城:南部信直からの独立大名津軽為信の城 桜で有名な弘前城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
弘前城

【弘前城の説明】
大浦為信の出自には諸説あり、大浦守信の子とも下久慈城主であった久慈氏の出とも言われている。近年の見方では大浦家が南部氏の一族であるという見解で落ち着いているようだ。

弘前城:南部信直からの独立大名津軽為信の城 桜で有名な弘前城【お城特集 日本の歴史】

南部家では元亀2年(1571年)に当主の「南部晴政」と一族(婿養子)の「石川信直」との間で争いが起こっており、この時大浦為信は石川家の津軽地方の領地を切り取り、勢力を拡大していった。

程なく南部家当主の晴政が没すると「南部晴継」がその後を継いだが14歳という若さで急死してしまう。このため、晴継の後継者争いが勃発し九戸家から南部晴政の養子に入っていた「九戸実親」と同じく婿養子だった「石川信直」との間で継嗣争いが発生するものの、結果的に「石川信直」が南部宗家を継いでしまう。

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この時、大浦為信は九戸側を支援したことから本家からは反勢力と見なされてしまい次第に独立する傾向へと立場を変えていく。九戸家と「石川信直」改め「南部信直」が互いに牽制しあっている中、為信は津軽地方をどんどん勢力下に治めていった。

その頃、中央政権では豊臣秀吉が天下を統一する過程にあり、これに接触する必要があると踏んだ為信は幾多の妨害を受けながらも「石田三成」を介して豊臣秀吉に接近することに成功する。

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天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、為信は南部氏より先駆けて「秀吉」に拝謁する。これにより津軽4万5千石の所領安堵の朱印状を受ける。

そして実質上南部氏から独立した大名となり、名前を大浦為信から「津軽為信」に改姓した。文禄3年(1594年)為信は堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城から移るが、軍事に不向きであることを理由に新しい城の候補地を鷹岡(現在の弘前城)に選定する。

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慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で東軍(徳川方)に付き、徳川家康より2千石の加増を受け4万7千石となり、弘前藩が成立する。弘前城は本丸だけが石垣造りでその他の曲輪などは土塁で造られた。築城時の天守は5重造りだったが落雷により焼失してしまった。

現在の天守は江戸時代の後期に本丸の辰巳櫓を改修して天守代用としたものである。

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■ 弘前城の石垣修理 100ぶりに開始!!【PR動画】
http://youtu.be/Fz80xhGsCe4

平成26年の弘前さくらまつり終了後、弘前公園では弘前城の石垣大修理が本格的に行われる。石垣修理に伴い、弘前城天守は解体せずに「曳屋(ひきや)」工法を用いて、現在の場所から北西70mに移動するとのこと。

曳屋は2015年の夏頃に始まり、元に戻るのは早くても5年後の予定。100年ぶりの大修理で、三層の重要文化財を曳家して石垣を修理するという、全国でも類を見ない大規模な工事となる。






【弘前城・場所・アクセス】
〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1

【弘前城地図】



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