三木城:秀吉軍との三木合戦(三木の干殺し)で有名な別所長治の居城 三木城【お城特集 日本の歴史】

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【城名】
三木城

【城の説明】
三木城は兵庫県三木市上の丸町にあった平山城である。
天正6年(1578年)から約2年に渡り、織田方の羽柴秀吉から兵糧攻めを受けたことで知られている。これを三木合戦(三木の干殺し)と言われている。この三木合戦の際には近隣の神吉城、志方城、淡河城、高砂城、端谷城など東播磨各地の城が別所方に従った。

この地に城を築いたのは「別所則治」で、築城時期については不明となっている。則治は数々の武功を挙げ播磨守護の「赤松政則」より8郡が与えられ、三木城を築城し、別所氏は赤松氏家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となったとされている。

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時代は別所安治の代に代わり、永禄11年(1568年)には今までよしみを通じていた「三好三人衆」を見限り織田信長につく。翌永禄12年(1569年)別所安治は織田信長軍として西播磨へ攻め込んだが、浦上宗景が三好方となって三木城に来襲してきた。

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翌永禄13年(1570年)には、当主が別所長治に変わり、北播磨の在田氏を滅ぼすと戦国大名としての地位を固めていった。天正6年(1578年)3月、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約した長治は突如三木城に立て籠もり、羽柴秀吉に叛旗を翻した。

毛利攻めの加古川会談で意見対立したのが原因とされているが、その前から毛利輝元とよしみを通じていたという説もある。当初織田軍は大混乱に陥ったが、西の毛利戦線を縮小し三木城の攻略に力を入れた。別所長治軍に組みしている城を一つ一つ攻め落としていき、翌天正7年(1579年)5月末には完全に三木城を攻囲し兵糧を断つ戦術に出た。

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秀吉軍は長期にわたり兵糧攻めを行い、同1月15日に開城を勧告し「別所長治」もこれに応じて自害した。その後、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。天正13年(1585年)8月には「中川秀政」が入城するが「朝鮮の役」で没すると、弟の中川秀成が跡を継ぐ。その後は豊臣氏の直轄地となり城番を置くことになる。

※三木城に建つ別所長治像
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この時、豊岡城主である杉原家が、三木城番を兼ねていたとされる文書が残っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの結果、池田輝政が播磨52万石の大名となり姫路城主となると、三木城はその支城の一つとなる。そして池田家の重臣の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後「伊木忠繁」が後を継ぐが元和元年(1615年)一国一城令によって三木城は破却された。

現在は、本丸周辺だけが上の丸公園として残っている。公園内には長治の辞世の歌碑や、城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」や近年立てられた長治の銅像がある。






【三木城・場所・アクセス】
兵庫県三木市上ノ丸町5-45

【三木城地図】



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