唐津城:豊臣家の寺沢広高が築城し幕末には小笠原長道が居城 唐津城【お城特集 日本の歴史】

唐津城:豊臣家の寺沢広高が築城し幕末には小笠原長道が居城 唐津城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
唐津城

【唐津城の説明】
唐津城は、佐賀県唐津市東城内にあった城で別名は、舞鶴城。唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口付近の満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。

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北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城・高松城とともに現在も直接海にそびえる石垣がみられる。文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。

慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。

唐津城:豊臣家の寺沢広高が築城し幕末には小笠原長道が居城 唐津城【お城特集 日本の歴史】

天守は天守台までしか建築されなかった。唐津城の復元当初は天守が存在していたとされていたが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。

天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966年)に造られた模擬天守である。寺沢広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。

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広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。正保4年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、嗣子がなかったために寺沢家はお家断絶となった。寺沢氏が改易となると一時天領となったが、慶安2年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が城主となった。延宝6年(1678年)大久保氏が下総国佐倉城に転封となり、代わって同地より大給松平乗久が入城。

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元禄4年(1691年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転封し、同地より土井利益が入封する。宝暦12年(1762年)土井氏が下総国古河城に転封し、三河国岡崎城より水野忠任が入封する。文化14年(1817年)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城し、以後明治維新まで小笠原氏の居城となった。

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明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、明治10年(1877年)には舞鶴公園として整備・開放された。昭和41年(1966年)文化観光施設として模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。






【唐津城・場所・アクセス】
〒847-0016 佐賀県唐津市東城内8-1

【唐津城地図】



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