久能城(久能山城):家康の死去東照宮になるまでは駿河の重要な拠点だった久能城【お城特集 日本の歴史】

久能城(久能山城)/アクセス・場所・地図 家康の死去東照宮になるまでは駿河の重要な拠点だった久能城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
久能城(久能山城)

【久能城(久能山城)の説明】
久能城は現在の静岡市駿河区根古屋「久能山東照宮」にあった平山城である。
築城時期は南北朝時代にまで遡り、足利尊氏と弟直義の戦い「観応の擾乱」で直義方の「入江駿河守」が尊氏方の今川氏と交戦した時に築城したと伝わる。

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戦国時代に入ると今川氏の所領は武田信玄に蹂躙され、この時、信玄は駿河湾を一望できる久能山に目を付けて本格的な城砦として久能城を整備した。

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城主には今福浄閑斎、今福丹波守昌和父子が任命されたが、今福父子は天正元年(1573)に遠江諏訪原城が築かれるとその城番となった。天正3年(1575)8月に徳川家康が遠江へ侵攻すると「諏訪原城」は落城し、浄閑斎は討死、丹波守は再び久能城に戻った。

※山本勘助が掘ったとされる勘助井戸
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天正10年(1582)、武田勝頼が織田信長に攻め滅ぼされると久能城は駿河に進攻した徳川家康に攻められ、今福丹波守は籠城戦の末に開城してこの地を去った。家康の支配下に置かれた久能城には家康の異父弟「松平勝俊」が城主として入城した。

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天正18年(1590)、家康が豊臣秀吉から関東移封を命じられると駿河は「中村一氏」に与えられ、久能城には一氏の家臣「松下吉綱」が城代として任命された。慶長5年(1600)で徳川家康が石田三成に勝利すると駿河は再び家康の領地となり、「榊原清政」が久能城の城番となり、後に子の照久が跡を継いだ。

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家康の死後、久能城が東照宮となった後も榊原氏がその祭祀を代々司り、幕末まで続いた。現在の久能城跡には東照宮が建立され家康の墓や神社として多くの観光客でにぎわっている。なお、城の遺構はほとんど残されていない。

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【久能山城・場所・アクセス】
〒422-8011 静岡県静岡市駿河区根古屋390

【久能山城地図】



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