長谷堂城:慶長出羽合戦で直江兼続の激しい攻撃に耐え抜いた最上家の長谷堂城【お城特集 日本の歴史】

長谷堂城/アクセス・場所・地図 慶長出羽合戦で直江兼続の激しい攻撃に耐え抜いた最上家の長谷堂城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
長谷堂城

【長谷堂城の説明】
長谷堂城は山形県山形市長谷堂にあった山城である。
築城時期は不明だが「伊達種宗(伊達政宗祖父)」が最上氏の重要な支城である長谷堂城を落とし、有利に和議を結んだとする記録が残されている。

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慶長5年(1600年)、中央で「関ヶ原の戦い」が勃発していた頃、奥羽では東軍(徳川家康)に与した「最上義光」を西軍(石田三成)の上杉景勝重臣「直江兼続」が攻撃し、山形城を目指して進軍していた。

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その途中にある「長谷堂城」ではこの城を巡って激しい攻防戦が行われた。(長谷堂城の戦い)長谷堂城の城主は最上義光の信頼の厚い「志村伊豆守光安」で約1千の城兵と籠城していた。長谷堂城は堅固な造りの上、さらにその周辺は足場が悪い沼地であった。

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関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗れると「直江兼続」は撤退を決意し、激しい追撃戦の上、会津城へと退いた。この戦のあと、「坂光秀」が城主に任命され光秀の没後は嫡男「坂光重」が引き継いだ。

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元和8年(1622年)に最上家にお家騒動が起こると、山形藩主「最上義俊」は改易・領地没収となる。長谷堂城は上杉景勝により接収され、その後破却された。

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現在の城跡は「城址公園」として整備されているが城の遺構はほとんど残されていない。






【長谷堂城・場所・アクセス】
〒990-2363 山形県山形市長谷堂176

【長谷堂城地図】



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