三原城:小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】

三原城/アクセス・場所・地図 小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
三原城

【三原城の説明】
三原城は現在の広島県三原市にあった城である。当時は海に面していたため浮城とも呼ばれていた。
築城者は毛利元就の三男「小早川隆景」で小早川家は元々水軍を主体とした家柄であった。このことから瀬戸内海を一層掌握するため、隆景は「高山城」「新高山城」を経て「三原城」の築城を開始した。

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もともと小早川家は「沼田小早川家」「竹原小早川家」にわかれていたが、隆景が両小早川家を束ねて当主に治まった。弘治元年(1555年)の「厳島の戦い」では毛利水軍の主力として小早川水軍を率いて毛利家を勝利へと導いている。

以降、隆景は小早川水軍を掌握し、三原城の整備や城下町の形成など城の増改築を推し進め三原の城を近世城郭へと変貌させた。中央では織田信長が覇権を握り多方面へ自身の軍団を送り込んでいた。中国地方統一の担当官は「羽柴秀吉」で、毛利家は度々秀吉と戦を繰り返し徐々に自領内へ攻め込まれるようになる。

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毛利家が秀吉との攻防戦を繰り広げているさなか、天正10年(1582年)織田信長が家臣の明智光秀に討たれるという大事件が発生する。いち早く主君の仇を討ちたい秀吉は信長の死を隠しながら毛利家と和睦の交渉を進めついに交渉がまとまった。

この交渉がまとまったのと当時に秀吉は大急ぎで京都へ引き返し、山崎の戦いで見事光秀を討ち取った。その後も柴田勝家・滝川一益を破り、織田家重臣の中で勝ち残り徐々に天下人への道を進み始める。

毛利家では秀吉とよしみを結ぶことが最善の策と考え、秀吉の軍門に実質的に降ることになり、四国征伐や九州征伐に積極的に協力した。この頃、本拠地を「吉田郡山城」から瀬戸内海の「広島城」へと移した。小早川隆景は秀吉の各地の戦に貢献したことで、筑前国を加増され「名島城」を与えられた。

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さらに小早川家の跡継ぎに秀吉の甥である「小早川秀秋」を迎え家の安泰を図った。文禄4年(1595年)、養子の秀秋に家督を譲り隆景自身は「三原城」に戻り隠居した。そして、慶長2年(1597年)三原城にて病死した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると秀秋は東軍の家康に戦の最中に寝返り、備前岡山城を賜った。しかし、その後、若くして病死し跡継ぎもいなかったため小早川家は改易されてしまう。

一方毛利本家は「石田三成」率いる西軍の総大将に祭り上げられたことで領地の1/4を失った。広島城は「福島正則」に与えられ毛利輝元は日本海側の「萩城」へ移封となる。

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三原城は福島家の支城として正則の子、正之が城主に治まった。ところが天下を統一した徳川家康は秀吉恩顧の大名を次々と改易し福島家もその例外ではなかった。結局、正則は広島城を没収され川中島へ流されることになった。これは2代将軍「徳川秀忠」の代の出来事である。

広島城には、紀伊和歌山藩主「浅野長晟」が入封し三原城には浅野家の家老が城代として入城する。江戸時期を通して浅野家が広島城、三原城を統治し続け明治維新を迎えている。

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現在の遺構は天守台や本丸を取り巻く堀や石垣、それに本丸中門跡や櫓を残すのみとなっている。2004年頃から城跡の復元や公園にする整備が進められている。






【三原城・場所・アクセス】
〒723-0004 広島県三原市館町1-1-1

【三原城地図】



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