人吉城:相良氏が35代支配し西南戦争時は西郷軍の拠点となる人吉城【お城特集 日本の歴史】

人吉城:アクセス・所在地・マップ 相良氏が35代支配し西南戦争時は西郷軍の拠点となる人吉城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
人吉城

【城の説明】
人吉城は熊本県人吉市麓町にあった平山城である。鎌倉時代に相良氏が地頭として人吉荘に赴任して以来35代の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の政庁があった。現在は国の史跡に指定されている。源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の「相良長頼」は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。

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もともとこの地は「平頼盛」の家臣の「矢瀬主馬佑」が城を構え支配する所であったが長頼により謀殺された。そして長頼は主馬佑の城を拡張して人吉城の基礎を造った。戦国時代に入ると相良氏は球磨地方の統一に成功する。しかし、大永6年(1526年)7月14日、日向地方を治める北原氏が率いた大軍により人吉城は包囲される。

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この時の城主「相良義滋」は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得た。これが相良氏入城後に人吉城が他家に攻められた唯一の出来事となった。その後、19代当主の「相良義陽」によって1573年頃より城の大改修が始められた。戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)ついに島津氏に降伏し臣従する。

その後、義陽の子「相良頼房」は天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際に島津方として奮戦するもこれに降伏、家臣「深水長智」の交渉により独立領主として人吉城と領地を安堵された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、石田方が敗れると徳川家康(東軍)に内応し戦功を挙げ、球磨地方2万2千石の領地を安堵された。

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その後相良氏は江戸時代を人吉城主として支配し明治維新にいたるまでこの地を治めた。明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治10年(1877年)には西南戦争で西郷軍の拠点となり戦闘が行われた。この戦闘により幕末時に再建された建造物は全焼したが、焼け残った堀合門が市内の民家に移築され現存する。

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人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれている。

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。城跡は人吉城公園として整備され国の史跡に指定された。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(93番)に選定された。






【人吉城・所在地・アクセス】
〒868-0051 熊本県人吉市麓町18-4

【人吉城マップ】



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