一本木関門跡:新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】

一本木関門跡/アクセス・場所・地図 新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】

【史跡名】
一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)

【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)の説明】
京都で新選組を結成してから鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に帰還し、大鳥圭介ら旧幕府軍と北関東で戦い、さらには会津戦争にも参加。各地で戦闘を重ねた土方歳三は新選組の生き残りを率いて仙台にまで流れてきた。

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ここで江戸湾を脱走してきた榎本脱走艦隊と合流し、一路蝦夷へと向かった。蝦夷地では榎本武揚が蝦夷共和国を建国し、新政府軍と対峙しようとしていた。新政府は当然これを認めず、蝦夷征討軍を送り込んできた。

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旧幕府軍からなる榎本軍は各地で敗れ、軍艦も沈められ海軍を失い制海権をも失う。刻一刻と函館包囲網が狭まる中、五稜郭での籠城を嫌った土方歳三は函館山から奇襲してきた新政府軍を迎え撃つべく、新選組生き残り他、兵50名と共に一本木関門へ到着しここを死守していた。

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しかし、戦闘を指揮していた土方の腹部を銃弾が命中しその生涯を終えた。土方が戦死したあと「榎本武揚」は旧幕府軍の全責任を取って全面降伏した。なお、土方が戦死した「一本木関門」跡地には「土方歳三最期の地碑」が建立され「一本木関門」も簡素だが復元されている。

この場所には常に土方歳三を惜しむ花が手向けられている。






【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)・場所・アクセス】
北海道函館市若松町33-6(函館市総合福祉センター前緑地)

【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)地図】





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