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石川数正の「書き置き」は史実か|身は豊臣でも心は徳川?『豊臣兄弟!』第40回「わが心は殿とともに」と三方ヶ原の約束
『豊臣兄弟!』第40回で石川数正が残した書き置き「たとえこの身は豊臣につこうとも、わが心は殿とともに」は史実か。三方ヶ原の夜の約束、家康の密命説、出奔後の数正と子・康長の行動から、「身は豊臣、心は徳川」は本当だったのかを考えます。 -
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家康と北条氏政の会見(天正14年)|督姫と氏直の婚姻で結ばれた徳川と北条 ─ 黄瀬川で何を話し、その後どうなったのか
天正14年3月、徳川家康は北条氏政と黄瀬川(三島・沼津)で会見した。天正11年の督姫と北条氏直の婚姻で結ばれた両家の同盟、会見の意味、その後家康が北条に臣従を勧め小田原攻めで敵対するまで。『豊臣兄弟!』第40回の史実。 -
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宮部継潤とは:『豊臣兄弟!』で土平ドンペイが演じる僧形の大名 ─ 万丸を預かった男と、根白坂の「日本無双の働き」
比叡山の僧・善祥坊が、浅井から秀吉へ移り、因幡鳥取の城主になりました。秀吉が甥の万丸(のちの秀次)を養子に差し出した意味、僧形のまま法印を名乗り続けた理由、そして根白坂で砦を守り抜いて「日本無双の働き」と称された一夜まで。 -
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秀吉の古参はなぜ切り捨てられたのか:神子田正治と尾藤知宣 ─ 同じ二百五十貫から出て、追放と斬首に終わった二人
長浜以来の古参で黄母衣衆、出発点は同じ二百五十貫。神子田正治は二重堀で敗走して高野山へ追放され、尾藤知宣は勝った根白坂で救援を止めて追放されました。秀吉が罰したのは勝敗ではなく、役目に対する振る舞いでした。 -
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ねねはどこの家の生まれか:杉原から浅野の養女へ、そして木下へ ─「恋愛結婚」と「木下姓は妻の実家から」は本当か
『豊臣兄弟!』で浜辺美波が演じる寧々の実家は杉原、養家は浅野、嫁ぎ先が木下。この三つの家のつながりが、のちの五奉行や小早川秀秋にまで効いていきます。あわせて「恋愛結婚」説と「木下姓はねねの実家から」説を、近年の研究で検証します。 -
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根白坂の戦いで秀長は何をしたのか:力攻めを避け、救援路に砦を置く ─ 島津の釣り野伏せが封じられた理由と、処分された軍監
天正十五年四月十七日の夜、日向で九州攻めの勝敗が決まりました。秀長は高城を囲み、島津の救援路にあたる根白坂に砦を置いて待ちます。島津の夜襲、援軍を止めた軍監・尾藤知宣、そして義久が降伏を決めるまでを布陣図とともに。 -
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北政所・大政所とは?読み方と意味のちがい ─ 寧々が「北政所」、なかが「大政所」と呼ばれた理由、「政所」の由来|『豊臣兄弟!』
この記事のポイント「北政所(きたのまんどころ)」は摂政・関白の正室を、「大政所(おおまんどころ)」は摂政・関白の母をうやまって呼ぶ言葉です。秀吉が天正13年(1585)7月に関白になったことで、寧々が北政所、なかが大政所と呼ばれました「政所」は... -
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豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのか|220万石の直轄地、佐渡・石見・生野の金山銀山、堺・博多・長崎を押さえた秀吉の財力 ─ 『豊臣兄弟!』第39回
この記事のポイント豊臣家が豊富な金銀を持てたのは、約220万石の直轄地(蔵入地)、全国の主な金山・銀山、京都・大坂・堺・博多・長崎などの商業都市という三つの財布を、自分の手で握っていたからです蔵入地は大名の領地とは別に豊臣家が自分で年貢を取... -
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なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのか|『豊臣兄弟!』第39回 山田涼介が演じる秀次の表と裏、秀長は何を見抜いていたのか
この記事のポイント秀長が「秀次には殿下の器はない」と言った記録はなく、ドラマの創作です。ドラマの秀長は、秀吉の前では従順で裏では権力と母の地位を望む秀次の、能力よりも内面を見抜いていたと読むことができます天正12年(1584)の小牧・長久手の... -
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寧々(北政所)はなぜ茶々の側室入りを認めたのか|お家のため?秀吉のため? 正室の務めと妻の本音 ─ 『豊臣兄弟!』第39回 浜辺美波が演じる寧々
この記事のポイント寧々が茶々の側室入りを認めた理由を語る本人の言葉は残っていません。家の跡継ぎを確保する正室の務め、側室の子も正室の子として育てる当時のならい、秀吉の天下を次の代へつなぐ思いが理由として考えられます当時は側室の子でも正室... -
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加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ不仲だったのか|尾張と近江の派閥?性格の問題? 朝鮮出兵の恨みから七将襲撃、関ヶ原まで|『豊臣兄弟!』第39回
この記事のポイント清正・正則と三成の不仲には、尾張と近江という出身のちがい、戦場の武将と政務の奉行という役目のちがい、朝鮮出兵での報告と処分をめぐる恨みが重なっていました。性格だけで説明できるものではありません清正と正則は尾張生まれで寧... -
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寧々と茶々の弓の勝負は実話?『豊臣兄弟!』第39回 ─ 寧々はなぜわざと外したのか、「弓衆の娘」は史実か、二人は本当に仲が悪かったのか
この記事のポイント寧々と茶々が弓で勝負したという記録は見当たらず、ドラマの創作です。茶々が側室になったいきさつを本人たちが書き残したものはなく、弓の勝負は「茶々が自分で選んだ」ことを見せるための工夫と考えられます寧々が「織田家の弓衆の娘... -
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佐治日向守とは|旭姫(あさひ)の前夫は本当に自害したのか ─ どんな家で、役目・城・石高は? 佐治一成との混同説|『豊臣兄弟!』第40回
この記事のポイント佐治日向守は旭姫の最初の夫で、離縁を受け入れて自害したと伝わりますが、その話は江戸時代中ごろの『武徳編年集成』などに見えるだけです。同時代の日記や文書には名前そのものが出てこず、実在を疑う見方が強くあります旭姫の前夫と... -
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養源院とは|茶々(淀殿)が父・浅井長政のために建てた寺 ─ 茶々と秀頼の供養、江の再建、血天井と俵屋宗達|『豊臣兄弟!』第39回紀行
この記事のポイント養源院は文禄3年(1594)、茶々が父・浅井長政の菩提を弔うために秀吉に願って建てた京都・東山の寺で、寺の名は長政の院号から取られています。茶々が秀頼を産んだ翌年のことでした元和5年(1619)に焼失したあと、茶々の妹で徳川秀忠... -
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出奔(しゅっぽん)とは?意味と読み方、寝返り・逐電・脱藩とのちがい ─ 石川数正、後藤又兵衛…出奔した戦国武将たち|『豊臣兄弟!』第39回
この記事のポイント「出奔」は「しゅっぽん」と読み、自分の住む国や家、仕えている主君のもとを、許しを得ずに逃げ出して行方をくらますことです。石川数正は徳川を出奔して秀吉方へ移ったので、「寝返り」「裏切り」とも呼ばれます似た言葉の「逐電」は... -
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豊臣兄弟!第39回「茶々の本心」の史実|「勝って殿下の妻になる」茶々の決断と、石川数正の出奔 ─ ドラマと史実のちがい
この記事のポイント第39回で秀長が茶々を勧めたこと、寧々との弓の勝負、「勝って殿下の妻になる」という言葉はドラマの創作です。ただし、織田の血を引く跡継ぎを失った秀吉が、のちに茶々の子に家を託す大きな流れは史実に沿っています茶々が秀吉のもと... -
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秀吉の黄金の茶室とは:いつ、誰に見せたのか ─ 天正14年の禁中茶会と大友宗麟、利休は本当に嫌ったのか|『豊臣兄弟!』第39回
この記事のポイント黄金の茶室は三畳ほどの組み立て式の茶室で、確かな記録に最初にあらわれるのは天正14年(1586)正月です。宮中の小御所で正親町天皇に茶を献じたあと、大徳寺で都の人びとにも公開した、関白秀吉の「広告」でした博多の豪商・神屋宗湛... -
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羽柴秀勝(於次秀勝)とは|『豊臣兄弟!』柊木陽太が演じる秀勝は病気でその後どうなった? ─ 信長の四男で秀吉の養子、18歳の死
この記事のポイント於次秀勝は信長の四男(五男説もあり)で秀吉の養子となり、天正13年(1585)12月10日に丹波亀山城で病のため18歳で亡くなりました。織田の血を引く跡継ぎがいなくなったことが、のちに茶々の子に期待がかかる下地になります養子に迎え... -
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本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか|鬼作左の意図と背景、秀吉の怒り、その後の蟄居と子・成重の出世
天正14年、人質として岡崎に来た秀吉の母・大政所の宿所に、本多作左衛門重次(鬼作左)が薪を積んだ逸話を解説。家康の上洛という背景、作左の意図、井伊直政との対照、秀吉の怒り、関東移封後の蟄居、子・成重の丸岡藩まで。 -
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豊臣兄弟!第40回の予想7つ、答え合わせ ─ 甚助の「優しい嘘」は的中、軍法と忠次は描かれず|当たり1つ・半分当たり1つ
10月18日放送の『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」で、こうなったらおもしろい場面を筆者が勝手に七つ予想。数正出奔後の家康、天正地震と長浜城、家康の正室の座、甚助とあさひ、大政所、輿入れの行列を史実と照らし合わせて解説。
