歴史ブログ– category –
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織田信長から2回にわたり離反した経歴を持つ松永久秀の最後とは
■ 日本の歴史ブログ 戦国時代に卑賤の身から機内一帯を治める大大名にまで上り詰めた戦国武将がいた。それが「松永久秀」だ。久秀は当初「三好長慶」の祐筆や秘書のような役割をはたしていたが徐々にその才覚を認められて、ついに長慶の筆頭家老ともいうべ... -
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仇討時の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ)の屋敷跡は?
■ 日本の歴史ブログ 江戸中期に起きた仇討事件、吉良上野介義央(きらこうずけのすけ)の屋敷跡地は? 赤穂浪士の吉良邸討ち入りはあまりにも有名な話である。しかし、討ち入り当時の吉良家屋敷がどこにあったのかはあまり知られていない。「本所松坂町」... -
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関ヶ原の戦いの戦闘に参加しなくても出世した男 山内一豊
■ 日本の歴史ブログ 関ヶ原の戦いの戦闘に参加しなくても出世した男 山内一豊 生きるか死ぬかの激しい戦国時代のさなか、実際に「関ヶ原の戦い」の戦闘に加わらなくても大いに出世した男がいた。それが土佐一国の城主となった山内一豊だ。 一豊がどのよう... -
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墨俣城(墨俣一夜城):一夜で建ったのか、誰が建てたのか
この記事のポイント 信長公記に「洲股(すのまた)要害の修築命令」の記述はある。つまり砦そのものは実在したとみてよい ただし信長公記は、誰が築いたとは書いていない 「一夜で建てた」「藤吉郎が名乗り出た」の典拠は『武功夜話』で、この史料には偽書... -
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大槻沢玄:杉田玄白・前野良沢の弟子にして一関藩の蘭学者 大槻沢玄
■ 日本の歴史ブログ 大槻沢玄:杉田玄白・前野良沢の弟子にして一関藩の蘭学者 大槻沢玄 大槻玄沢三賢人像 大槻玄沢は一関藩の蘭学者である。 江戸時代の代表的西洋学者「杉田玄白」「前野良沢」から一文字ずつもらって名前をつけたと言われている。 ※一関... -
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織田信長:相反する二つの顔を持つ織田信長の素顔
■ 日本の歴史ブログ 織田信長:相反する二つの顔を持つ織田信長の素顔 『冷酷残忍にして厚情寛大な二面性を持つ信長』 残忍で冷酷な暴君として描かれることが多い信長は、自ら「第六天魔王」と書状にしたためるなど、ダークなイメージがとても強い。だが、... -
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加藤清正:羽柴秀吉の小姓から一躍肥後一国の大大名へとのし上がった熊本城主 加藤清正
■ 日本の歴史ブログ 加藤清正:羽柴秀吉の小姓から一躍肥後一国の大大名へとのし上がった加藤清正 加藤清正は羽柴秀吉が長浜城主だった頃に召抱えられ、その後「賤ヶ岳の戦い」では「七本槍」の一人に数えられ、さらに数々の武功をあげて肥後一国の大大名... -
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伊達政宗:関ヶ原の戦いから大阪の陣そして晩年(後編)
■ 日本の歴史ブログ 伊達政宗:関ヶ原の戦いから大阪の陣そして晩年(後編) 関ヶ原の合戦が始まると政宗は上杉景勝の抑えとして背後を任されることになる。家康が西下する際に上杉軍が追撃出来ないよう牽制する大役を課せられたのである。 この時、政宗は... -
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伊達政宗:摺上原の戦いから関ヶ原の戦いまで(中編)
■ 日本の歴史ブログ 伊達政宗:摺上原の戦いから関ヶ原の戦いまで(中編) 政宗は奥羽最大の大名へと上り詰めていた。しかし、中央では豊臣秀吉が織田信長の覇権を継承しており、関東の北条氏政・氏直親子征伐のため準備を進めていた。 その際、政宗のもと... -
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伊達政宗:出生から家督相続 摺上原の戦いまで(前編)
■ 日本の歴史ブログ 伊達政宗:出生から家督相続 摺上原の戦いまで(前編) 伊達政宗は永禄10年8月(1567年)に出羽国米沢城内で伊達輝宗の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸。 伊達家では元服する際に名前の諱(いなみ)を代々将軍足利家から拝領すること... -
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最上義光:戦国時代に山形城を拠点に出羽国を統一した戦国武将 最上義光
■ 日本の歴史ブログ 戦国時代に山形城を拠点に出羽国を統一した戦国武将 最上義光 最上義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国を統一した戦国大名である。最上家の第11代当主にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最... -
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高山右近:最後はマニラにて死去 高槻城主でキリシタン大名 高山右近(ジュスト右近)後編
■ 日本の歴史ブログ 最後はマニラにて死去 高槻城主でキリシタン大名 高山右近(ジュスト右近)後編 天正6年(1578年)高山右近が与力として従っていた「荒木村重」が主君「織田信長」に反旗を翻した。村重の離反を知った右近はこれを翻意させようと考え、... -
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高山右近:高槻城主キリシタン大名 高山右近(ジュスト右近)前編
■ 日本の歴史ブログ 高槻城主キリシタン大名 高山右近(ジュスト右近)前編 高山右近(たかやま うこん)は、戦国時代の武将から大名にまでなった人物である。高山右近はキリシタン大名としてその名を知られている。 洗礼名は「ジュスト」という名でポルト... -
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堀尾吉晴:戦に明け暮れた生涯 豊臣政権では三中老の一人 松江城主堀尾吉晴
■ 日本の歴史ブログ 戦に明け暮れた生涯 豊臣政権では三中老の一人 松江城主堀尾吉晴 堀尾吉晴は、安土桃山時代から江戸時代前期の戦国武将であり、大名となる人物である。豊臣政権時代には三中老の一人となる。ちなみに三中老とは五奉行と五大老との間を... -
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浅井長政 後編:朝倉家の滅亡に続き小谷城も落城 浅井家3代にて滅亡 後編
■ 日本の歴史ブログ 朝倉家の滅亡に続き小谷城も落城 浅井家3代にて滅亡 後編 天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍勢を率いて再び北近江に攻め寄せた。長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は2万の軍勢で駆けつける。しかし織田の軍勢が北近江の城や拠点... -
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浅井長政 中編:織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編
■ 日本の歴史ブログ 織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編 元亀元年(1570年)信長が浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始めた。 長政は朝倉義景との同盟関係を... -
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浅井長政 前編:北近江の名将にて織田信長の義弟 浅井長政
■ 日本の歴史ブログ 北近江の名将にて織田信長の義弟浅井長政 前編 浅井長政は戦国時代の武将であり大名である。呼称は「あざい ながまさ」と「あさい ながまさ」の2説ある。長政は北近江の戦国大名浅井家の3代目当主にして最後の当主でもある。居城は滋賀... -
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小田原城落城後の北条氏の行く末は
■ 日本の歴史ブログ 小田原城落城後の北条氏の行く末は 戦国時代に関東をほぼ手中に収めていた「北条氏政・氏照」兄弟は中央で天下を狙う豊臣秀吉になかなか屈しなかった。天正18年(1590年)に秀吉の北条征伐が開始されると圧倒的な勢力に北条氏は籠城す... -
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亀井茲矩は秀吉に琉球攻めを懇願し許され琉球守を名乗るも・・・
■ 日本の歴史ブログ 亀井茲矩は秀吉に琉球攻めを懇願し許され琉球守を名乗るも・・・ 亀井茲矩は尼子義久の家臣で毛利輝元により尼子家が滅びると、山中鹿之助とともに織田信長に援助を求め旧領回復に努める。 しかし、四方八方に敵が残る信長は毛利攻めに... -
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東京の住宅街にある城跡とは?
■ 日本の歴史ブログ 東京の住宅街にある城跡とは? 世田谷城は吉良氏(吉良治家)が世田谷郷を与えられた時に館として整備された城である。 その後代々吉良家が治める城として栄えたが戦国時代に入り、吉良氏朝が「北条氏政」に味方をしたため豊臣軍に接取...
