内牧城跡(阿蘇市):黒川を堀にした城と、大名として終わらなかった阿蘇氏

内牧城/アクセス・場所・地図 名門阿蘇氏の滅亡後加藤清正の所領となった内牧城

内牧城(うちのまきじょう)は、阿蘇のカルデラの中に築かれた平城です。戦国期には阿蘇氏の家臣が城主をつとめ、豊臣秀吉の九州平定ののち、加藤氏が城代を置いて改修しました。黒川の流れをそのまま堀として使った城です。一国一城令で廃されたのち、城跡の一帯は内牧温泉の町となりました。今は公園として整備され、外輪山を見わたせます。

この記事のポイント
  • 阿蘇の火口原に置かれ、黒川を天然の堀とした城
  • 阿蘇氏は武家であると同時に阿蘇神社の大宮司をつとめる家だった
  • 佐々成政の失脚ののち、加藤氏が城代を置いて改修した
  • 一国一城令で廃城となり、跡地は温泉町として続いた

城跡を流れる黒川と外輪山

城跡のきわを流れる黒川。奥に阿蘇の山並みが横たわる。この川がそのまま堀の役目を果たしていた。

目次

カルデラのなかの城

阿蘇のカルデラは、東西十七キロ、南北二十五キロほどの巨大なくぼ地です。その底に田畑と集落が広がり、まわりを外輪山がぐるりとかこんでいます。内牧はそのカルデラの北側にあり、黒川が流れています。

城は、この黒川の流れを利用して築かれました。山城のように高さで守るのではなく、川と湿地で囲む平城です。阿蘇の中は平らですが、外へ出るには峠を越えなければなりません。カルデラそのものが大きな城郭のような地形で、内牧城はその内側に置かれた拠点でした。

池ごしに見る公園と山並み

水をたたえた池の向こうに公園の芝生が広がり、その先に外輪山が連なる。堀の一部が池として残されている。

阿蘇氏という家

▽ よく語られる話
阿蘇氏は島津に攻められて滅亡し、家は絶えた。
▼ 史実ではこうです
阿蘇氏は、阿蘇神社の大宮司をつとめる家です。武家として領地を治めながら、同時に神職の家柄でもありました。戦国末期、島津の侵攻によって領地を失い、豊臣秀吉の九州平定ののちも大名としては再興されず、幼い当主が命を落としています。ただし大宮司の家系そのものは絶えず、阿蘇神社の神職として今日まで続いています。戦国大名としての阿蘇氏は終わりましたが、家そのものは終わっていません。武力と神威の両方に足を置いていた家の、特異な残り方です。

内牧城の城主として伝わるのは、阿蘇氏の家臣です。カルデラの内側にはいくつもの城が置かれ、阿蘇氏はそれらを一族や家臣に預けていました。九州平定までの阿蘇氏は、大友・島津・龍造寺という大勢力のあいだで、たびたび立場を変えざるを得ない位置にありました。

佐々成政の失脚と、加藤氏の改修

九州平定ののち、肥後一国を与えられたのは佐々成政でした。ところが検地を急いだことから国人衆が反発し、大規模な一揆が起こります。責任を問われた成政は失脚しました。肥後は二つに分けられ、北半を加藤清正、南半を小西行長が治めることになります。

内牧城には加藤氏の城代が入り、黒川を堀とする改修が行われました。阿蘇は熊本と豊後を結ぶ道の途中にあり、カルデラの出入口を押さえる意味があります。清正が城を整えたのは、領国経営の一環でした。

やがて一国一城令により、内牧城は廃されます。加藤氏の城は熊本に一本化され、阿蘇の城はすべて姿を消しました。

温泉の町として

城が廃されたあと、内牧は温泉の町として続きました。カルデラの底には湯が湧き、湯治場として人が集まります。幕末には、勝海舟と坂本龍馬がこの温泉に泊まったと伝えられ、城跡の一角にその記念の板が立てられています。

城跡に立つ案内板

黒い板に白い文字で記された案内板。この地に幕末の二人が逗留したことが記されている。まわりは公園の木立。

城の遺構はほとんど残っていません。それでも、黒川の流れと池の位置に、堀の跡をたどることはできます。城が消えても、水の配置は残る—川を堀にした城の跡には、よくあることです。

内牧城跡の訪ね方

城跡はJR豊肥本線の内牧駅から歩ける距離にあり、内牧温泉の宿が集まる一帯です。公園として整備され、池のまわりを歩けます。外輪山と阿蘇の山並みを一望できる場所なので、城跡というより景色を楽しみに行く感覚になります。

阿蘇では、阿蘇神社の楼門や参道もあわせて訪ねたいところです。熊本の城をめぐるなら、宇土城や島原城と結ぶと、肥後が二つに分けられた時代の形が見えてきます。

所在地:〒869-2301 熊本県阿蘇市内牧267

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