佐野城とは
佐野城は、慶長七年(1602)に佐野信吉が築きはじめた平山城である。別名を春日岡城という。
佐野氏はもともと、上杉謙信を何度も撃退した唐沢山城の主である。関東随一と称された山城を捨てて平地の独立丘陵へ降り、新しい城と町を造った。ところが移ってわずか七年で改易され、城は廃された。

「史跡 佐野城址」の石柱。城山公園として整備されている(栃木県佐野市若松町)
春日岡という地名
現地の案内板によれば、春日岡という地名は延暦元年(782)に藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられる。城が築かれるより八百年も前から、この丘には名前があった。
慶長七年、佐野信吉は当時この丘にあった惣宗寺——現在の佐野厄除大師——を移転させたうえで、築城と町割を同時に開始した。今日見られる佐野の街並みは、このときの町づくりがそのまま原形になっている。

佐野市指定文化財「佐野城跡」の案内板。発掘調査の成果が図と写真で詳しく示されている
南から北へ、一直線
案内板は縄張りを具体的に記している。独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と直線的に築かれている。
主郭部は全体で東西110メートル・南北390メートル。それぞれの曲輪の間は空堀で区切られ、内堀から外堀へと続いていた。外堀は東西300メートル・南北600メートル四方の城郭を取り囲み、広いところでは幅数十メートルに達したという。

曲輪と曲輪を隔てる空堀。市街地のただ中に、深い切れ込みが残る
内堀から外堀の範囲は市街化で完全に埋め立てられたが、主郭部は当時の城割の姿を良好に留めている。空堀を渡って北へ進むと、三の丸から本丸へと曲輪が順に現れる構成が今も体感できる。

空堀の斜面。土を掘り込んだ関東の城の造りが、慶長期の城にも受け継がれている
見えている石は、遺構ではない
本丸には、少し変わった案内板が立っている。石畳と石垣についてのものだ。

「佐野城本丸の石畳と石垣」の案内板(平成六年十月・佐野市教育委員会)
平成四年度の発掘調査で、本丸から石畳の通路と石垣が発見された。石畳は東西2.6メートル、南北5.6メートルほどの範囲で確認され、東部には水路と思われる幅20センチ・深さ20センチの溝がある。石垣は最もよく残っている部分で長さ6.4メートル、高さ1.4メートル。いずれも細長い角礫を使っていた。
ところが案内板は続けてこう書く。出土した石畳と石垣は形状を損なうおそれがあるため、保存のために埋め戻しを行なっている。現在、埋め戻した石垣と通路に沿って、この付近から出土した石を並べている、と。
つまり、いま地表に見えている石は遺構そのものではなく、遺構がここにあると示すための目印である。本物は土の下で眠っている。見せることと守ることが両立しないとき、行政は守るほうを選んだ。城跡めぐりをしていると時々出会う判断だが、これほど明快に書いてある例は珍しい。
桐紋の瓦が出た城
発掘の成果はほかにもある。本丸中央部からは建物跡が見つかり、柱を支える礎石が整然と等間隔に並んでいた。南北四間、東西六間以上の規模で、本丸の主殿にかかわる施設と考えられている。そしてこの付近からは桐紋の軒瓦がいくつも出土した。
二の丸北部からは東西・南北に走る石組溝が発見され、南北溝の一部はクランク状に折れ曲がっていた。調査された範囲だけでも東西16メートル・南北17メートル以上に及ぶ。この溝からは織部焼の向付なども出ている。三の丸南部では地表下1.5メートルから内径約1メートルの石組の井戸跡が見つかり、その北20メートルほどの地点には馬出しと思われる幅約10メートルの堀跡が確認された。
石垣、瓦、石組溝、織部焼。児山城や臼井城のような土だけの中世城郭とは、明らかに造りが違う。佐野城は関東の城が近世化していく、その入口に建っていたのである。
山を降りたら、家が消えた
佐野氏が唐沢山城を廃してこの地に移ったのは慶長十二年(1607)とされる。そして同十九年(1614)、所領を没収されて改易。築城から数えても十二年、移転からはわずか七年で城は廃された。
近隣では栃木城の皆川広照が慶長十四年(1609)に改易され、城を取り壊されている。下野の在地領主は、江戸初期のこの十数年でまとめて整理された。山城から平地へ降りることは戦国の終わりを認める行為だったが、降りたからといって家が続くわけではなかった。
一方で、大田原城の大田原氏は同じ時期を生き延びて三百二十六年続いている。何が生死を分けたのかは、城の造りではなく、幕府との距離の測り方だった。
佐野城の現地写真







佐野城・場所・アクセス
〒327-0027 栃木県佐野市若松町
JR両毛線・東武佐野線「佐野駅」の北口すぐ。東北自動車道 佐野藤岡インターから車で約15分。城山公園として開放されている。
駅の裏手がそのまま城跡という珍しい立地である。南の三の丸から入り、空堀を越えて本丸・北出丸へ抜けると、連郭式の構成がよく分かる。所要は三十分ほど。
