前野家屋敷跡(まえのけやしきあと)は、愛知県江南市前野町にある史跡で、戦国時代に前野一族の屋敷があった場所です。昭和34年(1959)の伊勢湾台風で屋敷内の土蔵が崩れ、その整理のなかから『武功夜話』と呼ばれる古文書が見つかったことで知られています。秀吉の古参の家臣・前野長康(将右衛門)も、この一族の出身です。
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
- 前野氏は岩倉の織田伊勢守に仕え、家老も務めた家柄
- 生駒・蜂須賀・安井・坪内氏などと縁組を重ね、地域の開発に力を尽くした
- 伊勢湾台風で土蔵が倒れ、整理中に『武功夜話』などの文書が見つかった
- 前野長康や小坂雄吉など、秀吉に仕えた武将を出した

いまも残る白壁と黒板張りの土蔵。手前に案内板と碑が並んでいます。
■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
案内板に書かれていること
屋敷跡の一角に立つ案内板は、風雨で文字がかなり薄くなっていましたが、おおよそ次のようなことが書かれています。
吉田龍雲家の屋敷を中心として、かつて前野氏一族の屋敷があったことが、慶長十三年に作られた「前野村之覚」絵図と、むかし「八屋敷」と近くの人々がいい伝えてきたことによってわかる。祖先は稲木庄の良峯氏の子孫で、良峯高春が前野氏の元祖といわれている。岩倉織田伊勢守に仕え家老も勤めた家柄で、近隣の生駒・蜂須賀・安井・坪内氏などとの姻戚関係をもつ名門として、地域の開発・発展に大きく貢献したことが古文書や言い伝えで知られている。昭和三十四年の伊勢湾台風で屋敷内の土蔵が被害を受け、整理中に先祖が残した『武功夜話』などの文書が発見されて、先祖をはじめこの地の様子が鮮明に浮かび上がってきた。特に天下統一を進めた織田信長や豊臣秀吉とは深い関係を持ち、また蜂須賀小六とは義兄弟の契りを結び、小坂孫九郎雄吉、前野将右衛門長康をはじめ、野田清助・森勘解由などの武将たちを輩出した。(現地の案内板より要約。判読できない部分は省きました)

前野家屋敷跡の案内板。文字がかすれて読みにくくなっています。
『武功夜話』とは
『武功夜話』は、前野家に伝わったとされる記録で、信長や秀吉の時代の尾張・美濃のようすを、前野一族や蜂須賀小六の目線でくわしく書いています。秀吉の墨俣一夜城や、川並衆の活躍などを生き生きと伝える一方、言葉づかいや地名に後の時代のものが混じっているとして、そのまま史実とみることには慎重な研究者も多く、評価が分かれている史料です。それでも、この土蔵から見つかったことで、前野家や宮後の蜂須賀小六をめぐる物語が広く知られるようになりました。
前野長康と前野一族のその後
前野一族から出たなかで最も出世したのが、前野長康(将右衛門)です。長康は蜂須賀小六とともに早くから秀吉に仕え、墨俣や金ヶ崎の退き口などで働き、のちに但馬出石で大名になりました。しかし文禄4年(1595)の秀次事件で秀次の後見役だったことをとがめられ、切腹に追い込まれています。長康の生涯は前野長康(将右衛門)とはに、小六との運命の分かれ目は蜂須賀正勝と前野将右衛門の結末はどこで分かれたのかに、秀次事件で処分された人びとについては秀吉に処刑・切腹させられた人びとに書いています。
屋敷跡に残るもの
屋敷跡には古い土蔵が残り、その前に案内板と、「前野小兵衛」の名が刻まれた背の高い碑が立っています。土蔵の脇には大きな瓢箪(ひょうたん)を彫った石もあり、秀吉の馬印として知られる瓢箪を思わせて、秀吉とのつながりを伝えようとしたのだろうと感じました。蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)とは車ですぐの距離で、前野と蜂須賀という二つの家が近くに住み、縁を結んでいたことが実感できます。



前野家屋敷跡の場所
【場所】愛知県江南市前野町。蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)とあわせて回れます。
【実録】朝5時出発、小牧・長久手の戦いの史跡を車で日帰り ― 長久手古戦場から秀吉の本陣・楽田城まで11か所
回った順番や駐車場・トイレ、御城印・御朱印の情報はこちらの「8. 前野家屋敷跡」にまとめています。
