秀長は守銭奴だったのか|郡山城に残された金子5万6千枚と『多聞院日記』の辛口評価 ─ 奈良借、兵糧、熊野の材木【豊臣兄弟!】

大和郡山城の天守台から見おろす郡山の町
この記事のポイント
  • 秀長が亡くなったあと、郡山城には金子(金貨)が5万6千枚余り、銀子は二間四方(約3.6メートル四方)の部屋に積みあがるほど残されていたと、奈良・興福寺の僧の日記『多聞院日記』は伝えています
  • 秀長は奈良の商人たちに金銀や米を貸しつけ(奈良借)、九州攻めでは兵糧を高く売ろうとして秀吉に止められたともいわれます。家臣の吉川平介による材木代の着服事件も起きました
  • 『多聞院日記』を書いた英俊は、秀長の取り立ての厳しさを嘆いています。秀長の死後、奈良借の取り立てで家が立ちゆかなくなった人々のことも書かれています
  • ただし、大名の蓄えは戦や普請のための「軍資金」でもありました。秀長が私腹を肥やしたのか、豊臣政権の財政を支えたのかは、見方が分かれます

温厚で人望が厚く、兄・秀吉を支えた名補佐役。秀長には、そんな人物像がついてまわります。ところが、同じ時代の奈良の記録には、まったく違う秀長の姿も描かれています。郡山城に残された莫大な金銀、奈良の商人への貸しつけ、厳しい取り立て。秀長は本当は「守銭奴」だったのでしょうか。この記事では、記録に残る秀長のお金の話を整理し、どう読めばよいのかを考えます。

目次

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郡山城に残された金銀

天正19年(1591)1月22日に秀長が亡くなると、郡山城の蔵にどれほどの財産があったのかが、奈良の人々のあいだで話題になりました。興福寺の多聞院の僧・英俊は、その日記『多聞院日記』に、秀長の遺した財産について書きとめています(多聞院日記とは)。

財産 『多聞院日記』に伝わる量
金子(金貨) 5万6千枚余り
銀子(銀貨) 二間四方(約3.6メートル四方)の部屋に積みあがるほど
銭 量りしれないほど

金子は「枚」で数える金貨で、5万6千枚余りというのは、その枚数です。いまの金額に置きかえるのは難しいものの、百万石の大名の蓄えとしても、とほうもない量だったことは確かです。

大和郡山城の天守台から見おろす郡山の城下
大和郡山城の天守台から見た城下。秀長の金銀はこの城の蔵に残されていました

お金はどこから来たのか

奈良の商人への貸しつけ「奈良借」

秀長は、奈良の商人たちに金銀や米、銭を貸しつけていました。これを「奈良借(ならがし)」といいます。商売を助けるための貸しつけだったという見方がある一方で、借りたくない者にも無理に貸しつけ、高い利子をとったという見方もあります(秀長はなぜ商人に金を貸したのか)。

『多聞院日記』には、秀長が亡くなった年、奈良借の取り立てのために、家族が自害したり、人が殺されたりする事件が起きたことも書かれているといいます。取り立てを受ける側にとって、奈良借はけっして「やさしい貸しつけ」ではありませんでした。

九州攻めの兵糧

天正15年の九州攻めでは、秀長が、出陣した大名たちに兵糧を割高な値段で売ろうとし、秀吉に止められたという話も伝わっています。兄から叱られるほどの商売っ気があった、ということになります。

熊野の材木と吉川平介

秀長の領国の紀伊・熊野は、良い材木の産地でした。秀長は大坂城や京の大仏殿のための材木を集める役を担い、その管理を家臣の吉川平介に任せていました。ところが天正16年、平介が材木の代金を着服していたことがわかり、平介は処刑されます(吉川平介(平助)はなぜ熊野の材木代を着服したのか)。秀長自身も責任を問われ、翌年の正月には秀吉から年頭の挨拶を断られたといいます。

▽ よく語られる話
秀長は温厚で欲がなく、領民思いの名君だった。
▼ 史実ではこうです
同じ時代の奈良の記録には、秀長の厳しい取り立てや、莫大な蓄えのことが書かれています。秀長は、お金の扱いにたけた、きびしい領主でもありました。

英俊は秀長をどう見ていたのか

『多聞院日記』の英俊は、秀長の取り立ての厳しさや、郡山城の築城のために寺の石まで運ばせたことを、苦々しく書きとめています。秀長が大和に入ったあと、興福寺などの寺社は所領の申告をきびしく求められ、奈良の商いも郡山へ集められました(興福寺と東大寺は本当に「悪」だったのか)。寺の僧である英俊にとって、秀長は自分たちの暮らしをおびやかす領主でもあったのです。

ただし英俊は、秀長が亡くなったとき、この国の先行きはどうなるのか、と心細さも書きつけているといいます。きびしい領主ではあっても、大和を治めていた秀長がいなくなることへの不安は大きかったのでしょう。

興福寺の中金堂
『多聞院日記』を書いた英俊がいた興福寺(奈良市)

秀長は本当に守銭奴だったのか

では、秀長は私腹を肥やす守銭奴だったのでしょうか。これには、いくつかの見方があります。

見方 内容
きびしい領主だった 奈良借の取り立てや寺社への締めつけは、領民にとって重い負担だった
政権の財布を預かっていた 大名の蓄えは戦や城づくり、大仏殿の普請に使う軍資金でもあった。秀長は豊臣政権の財政を支える役目を担っていた
商人感覚にたけていた お金を貸し、物を売り、材木を集める。秀長は数字と帳簿に強い大名だった

秀長が残した金銀は、そのまま豊臣家の財産として受けつがれていきます。秀吉の天下統一や、その後の朝鮮出兵、伏見城の普請には、莫大なお金が必要でした(豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのか)。秀長の蓄えは、その一部を支えるものでもあったと考えられます。

「温厚な名補佐役」と「きびしい取り立ての領主」。どちらか一方だけが本当の秀長だったわけではないでしょう。兄の天下を支えるために、お金を集め、数字を管理し、ときにはきびしい手段もとった。その両面をあわせ持っていたのが、記録に残る秀長の姿です(豊臣秀長は実際に何をしていたのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、仲野太賀さんが秀長を演じています。公式ガイドで伝えられている第44回「ある家臣の死」(11月15日放送予定)では、熊野の材木の調達を任された秀長を山奉行の吉川平助が支えますが、平助は横領の罪で刑死します。秀長とお金をめぐる話がドラマでどう描かれるのかに注目です。

よくある質問

Q. 秀長はどれくらいの財産を残したのですか?
A. 『多聞院日記』によると、郡山城には金子5万6千枚余り、銀子は二間四方の部屋に積みあがるほど、銭は量りしれないほど残されていたと伝わります。

Q. 奈良借とは何ですか?
A. 秀長が奈良の商人たちに金銀や米、銭を貸しつけたことをいいます。取り立てが厳しく、秀長の死後には悲惨な事件も起きたと伝わります。

Q. 秀長は守銭奴だったのですか?
A. 記録には厳しい取り立てや莫大な蓄えが書かれていますが、大名の蓄えは軍資金や普請の資金でもありました。私腹を肥やしたのか、政権の財政を支えたのかは、見方が分かれます。

Q. 秀長のお金のことを書いた史料は何ですか?
A. 奈良・興福寺の僧・英俊が書いた『多聞院日記』が中心です。秀長に批判的な立場からの記録である点に注意が必要です。

まとめ

秀長が亡くなったとき、郡山城には金子5万6千枚余りと、部屋いっぱいの銀子が残されていたと『多聞院日記』は伝えます。奈良借の厳しい取り立てや、兵糧の高値売り、吉川平介の材木事件など、記録には「温厚な名補佐役」とは違う秀長の姿があります。ただし、その蓄えは豊臣政権を支える軍資金でもありました。お金に強く、ときにきびしい手段もとった領主。それもまた、秀長の本当の姿だったのです。

参考:『多聞院日記』/香原斗志「秀長=領民思いの君主は間違っている」(PRESIDENT Online)

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