真田昌幸と幸村(信繁)はなぜ命を救われたのか|関ヶ原で敗れた父子の死罪を覆した、兄・信之と本多忠勝の嘆願 ─ 安藤政信が演じる幸村が生き延びた理由

上田城/アクセス・地図・場所 真田昌幸が築城し徳川軍を散々苦しめた上田城
この記事のポイント
  • 関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は豊臣方(西軍)についた真田昌幸と信繁(幸村)に死罪を言い渡しました。上田城で徳川秀忠の大軍を足止めし、関ヶ原の本戦に遅れさせた張本人だったからです
  • 二人の命を救ったのは、徳川方(東軍)についた長男の信之と、その舅で徳川四天王の一人・本多忠勝の嘆願でした。関ヶ原で徳川のために働いた信之の功に免じて、父と弟は死罪を免れます
  • 西軍の大名の中で、首謀者の石田三成らは斬首、宇喜多秀家は八丈島へ流罪となりました。真田父子は三成のような首謀者ではなく、命を取らずに遠くへ流す、という処分が選ばれたのです
  • 死罪の代わりに決まったのは高野山での蟄居で、父子は慶長5年(1600)12月に上田を発ち、やがて高野山のふもとの九度山に移ります

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』で、安藤政信さんが演じる真田幸村は、九度山で十四年もの幽閉生活を送っています。ですが、関ヶ原で家康に逆らい、しかも徳川の跡継ぎ・秀忠の大軍を足止めして本戦に遅れさせた父子が、なぜ殺されずにすんだのでしょうか。この記事では、関ヶ原のあとに真田昌幸と信繁がどう裁かれ、誰の手で命を救われたのかを、ほかの西軍大名の処分とくらべながらたどります。

上田城跡の東虎口櫓門と石垣
上田城跡(長野県上田市)。関ヶ原の戦いのとき、昌幸と信繁はこの城で徳川秀忠の大軍を足止めしました
目次

関ヶ原のあと、真田父子に下された処分は「死罪」

慶長5年(1600)7月、上杉征伐に向かう途中の下野国で石田三成らの挙兵を知った真田父子は、昌幸と信繁が豊臣方(西軍)、長男の信之が徳川方(東軍)に分かれました(犬伏の別れとは ─ 真田父子はなぜ敵味方に分かれたのか)。上田城に戻った昌幸と信繁は、9月、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を城の前で足止めし、秀忠は9月15日の本戦に間に合いませんでした(第一次・第二次上田合戦)。

徳川の跡継ぎに大きな恥をかかせたこの父子に対して、勝った家康が下したのは死罪でした。上田城は徳川方に引き渡されてのちに取り壊され、昌幸の領地も取り上げられます。昌幸の側にも、最後は城に籠もって討死する覚悟があったと伝わります。

ほかの西軍大名はどう裁かれたのか

関ヶ原のあと、西軍についた大名たちには厳しい処分が下されました。主な例を並べると、次のとおりです。

西軍の武将 関ヶ原のあとの処分
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊 捕らえられ、京の六条河原で斬首
宇喜多秀家 領地を没収され、のちに八丈島へ流罪
長宗我部盛親 土佐一国を没収(改易)
毛利輝元 西軍の総大将。周防・長門の二国に減封
上杉景勝 会津百二十万石から米沢三十万石に減封
真田昌幸・信繁 死罪とされたが、助命されて高野山へ配流

こうして見ると、命まで取られたのは、三成や小西行長、安国寺恵瓊といった西軍の中心にいた人たちでした。真田父子は信濃の一大名で、西軍の挙兵を前もって知らされてもいなかった立場です。首謀者ではないが、徳川に手痛い打撃を与えた ─ その中間にあたる真田父子の処分が「死罪か、遠くへ流すか」で揺れたのは、こうした事情によるものと考えられます。

父と弟の命を救った信之の嘆願

死罪を覆す力になったのは、東軍についた長男の信之でした。信之は関ヶ原のとき秀忠の軍に加わって徳川のために働いており、その功を理由に、父と弟の命を助けてほしいと家康に願い出ます。家康の側から見ても、徳川方として忠義を尽くした信之の願いを退ければ、ほかの大名たちに「徳川に尽くしても報われない」と受け取られかねません。信之は、昌幸の旧領を受け継いだうえで、父と弟の助命も勝ち取ることになりました。

信之はこのころ、名を「信幸」から「信之」に改めたといわれ、父と同じ「幸」の字を捨てて、西軍についた父と一線を引く意思を示したとも説明されます。ただ、その後も「信幸」と署名した文書が残っており、改名の意味については研究者のあいだでも見方が分かれています(真田家とは:幸隆・昌幸・信之・信繁(幸村)の三代六人)。

舅・本多忠勝の後押し

信之の嘆願を後押ししたのが、舅の本多忠勝でした。忠勝は家康が若いころから仕えてきた徳川四天王の一人で、その娘の小松姫は家康の養女として信之に嫁いでいます。家康にとって最も古くからの重臣のひとりである忠勝が、娘婿の父と弟の命を願い出たことは、家康の判断に大きな重みを持ったはずです。

▽ よく語られる話
本多忠勝は「昌幸父子の命を助けていただけないなら、殿(家康)と一戦交えるまで」と迫り、家康に助命を認めさせた。
▼ 史実ではこうです
忠勝が家康にそこまで迫ったという話は、江戸時代以降に広まった逸話で、同じ時代の史料には見えません。信之と忠勝が助命を嘆願したことは伝わっていますが、その場でどんなやりとりがあったのかはわかっていません。

死罪の代わりに決まった「高野山への蟄居」

こうして昌幸と信繁は死罪を免れ、代わりに高野山で謹慎すること(蟄居)を命じられました。慶長5年(1600)12月13日、父子は上田城を発って紀伊国へ向かい、信繁の妻子や十数人の家臣がこれに従ったとされます。昌幸の正室は上田に残りました。父子ははじめ高野山のふもとの細川に置かれ、まもなく近くの九度山に移って、ここで長い流人生活を送ることになります(真田昌幸とは|「表裏比興の者」と呼ばれた知将)。

命は助かったものの、昌幸は二度と信濃の土を踏むことはありませんでした。信之を通じて赦免を願い続けましたが許されず、慶長16年(1611)に九度山で亡くなります。そして生き残った信繁は、十四年後、九度山を抜け出して大坂城に入り、自分の命を救った徳川家康の本陣に、最後の突撃をかけることになるのです(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

安居神社
安居神社(大阪市天王寺区)。真田信繁が最期を迎えた地と伝わります

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よくある疑問

Q. 真田昌幸と幸村(信繁)はなぜ処刑されなかったのですか?
A. 徳川方についた長男の信之と、その舅で徳川四天王の一人・本多忠勝が助命を嘆願したためです。関ヶ原で徳川のために働いた信之の功が考慮されたとされます。

Q. 家康は本当に真田父子を死罪にするつもりだったのですか?
A. 関ヶ原のあと、父子には死罪が言い渡されたとされます。上田城で秀忠の大軍を足止めし、本戦に遅れさせたことが大きかったと考えられます。

Q. 助命されたあと、真田父子はどうなりましたか?
A. 高野山での蟄居を命じられ、慶長5年(1600)12月に上田を発ちました。はじめ高野山のふもとの細川に置かれ、まもなく九度山へ移って暮らしました。

Q. 本多忠勝が家康と一戦交えると迫ったのは本当ですか?
A. 忠勝が助命を嘆願したことは伝わっていますが、家康に一戦交えると迫ったという話は後世の逸話で、同じ時代の史料には見えません。

Q. ドラマで真田幸村を演じるのは誰ですか?
A. 安藤政信さんです。ドラマは、助命されて九度山に流された幸村の、それから十四年後から物語が始まります。

まとめ

関ヶ原のあと、真田昌幸と信繁は死罪を言い渡されましたが、徳川方として働いた長男の信之と、舅の本多忠勝の嘆願によって命を救われ、高野山への蟄居に処分が改められました。西軍の首謀者ではなかったことも、命を取られずにすんだ理由の一つと考えられます。兄の嘆願で生き延びた弟が、十四年後、家康の本陣に迫ることになる ─ ドラマの幸村の物語は、この助命の上に成り立っているのです。

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