蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代:木曽川の蜂須賀党から、墨俣・金ヶ崎の退き口・小谷攻め・中国大返しまで

龍野城:赤松広秀から蜂須賀正勝(小六)の居城へ 幕末時は脇坂氏が治めた龍野城

『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」で、蜂須賀小六(正勝)が退場しました。藤吉郎と呼ばれていたころから秀吉のそばにいた人物だけに、放送後は別れを惜しむ声が多く上がりましたが、では二人は、織田家の家臣としてどんな道を一緒に歩いてきたのでしょうか。

この記事では、木曽川の水運を押さえた蜂須賀家の成り立ちと「蜂須賀党」の顔ぶれから始めて、美濃攻めの墨俣から、越前からの撤退戦となった金ヶ崎の退き口、浅井氏を滅ぼした小谷攻め、播磨・中国攻め、そして本能寺の変のあとの中国大返しまで、1560年代から1582年までの二十年ほどを順にたどります。蜂須賀正勝の人物像は 蜂須賀正勝(小六)とは で、晩年と最期は 蜂須賀正勝の武功と最期 で扱っているので、ここでは「織田家での二人の軌跡」に絞ってお話しします。

この記事のポイント
  • 蜂須賀氏は木曽川の水運を押さえた尾張の国人で、正勝は道三、ついで信長に仕えたのち、信長の家臣として秀吉の下につきました
  • 墨俣・金ヶ崎・小谷・天王寺・三木・鳥取・高松と、秀吉の主な戦いのほとんどに正勝は居合わせました
  • 槍働きもしましたが、目立つのは川と人を動かす仕事と、城を落とす前に降ろす交渉でした
目次

蜂須賀家のはじまり:木曽川の水運を握った尾張の国人

蜂須賀氏は、尾張国海東郡の蜂須賀郷(いまの愛知県あま市蜂須賀)を本拠とした国人で、家の名もこの土地に由来します。のちの徳島藩の系図では足利氏や斯波氏の流れをくむとされていますが、これは確かめられておらず、系譜としてはっきりたどれるのは正勝の父・正利のあたりからです。正利、正勝、その子の家政と、三代続けて「小六」を通称にしました。

蜂須賀郷は、木曽川とその分かれ流れがつくる低地にあります。当時の木曽川は、美濃や飛騨の材木や年貢米を下流へ運ぶ大きな道で、流域の土豪たちは渡し場や舟、川筋で働く人足を押さえることで力を持っていました。蜂須賀氏もそうした川筋の土豪のひとつで、尾張守護の斯波氏に仕えたのち、正利の代には美濃の斎藤氏にも従ったとされています。尾張と美濃の境を流れる川に根を張っていたからこそ、両方の大名とつながることができたわけです。

正勝の若いころ:道三、そして信長のもとへ

正勝は1526年に生まれ、若いころは美濃の斎藤道三に仕えました。道三が子の義龍と争った1556年の長良川の戦いでは道三の側で戦ったと伝えられ、道三が敗れて亡くなったあとは尾張に戻り、やがて信長の家臣になります。本格的に信長のもとで働くようになったのは1564年ごろとされ、そこで出会ったのが、同じ家中でまだ身分の低かった木下藤吉郎でした。

二人が矢作橋で出会ったという有名な話は江戸時代の読み物がつくった創作で、実際には織田家の家臣どうしとして知り合ったと考えるのが自然です。野盗の親分だったという話も同じく後世の創作で、その経緯は 蜂須賀正勝(小六)とは で解説しています。

蜂須賀党の顔ぶれ

正勝のまわりには、同じ木曽川筋の土豪や、正勝を頼って身を寄せた若者たちがいました。のちの読み物では「蜂須賀党」「川並衆(かわなみしゅう)」と呼ばれる人びとで、秀吉の美濃攻めや墨俣の築城で働いたと伝えられています。

人物 どんな人か
前野長康(将右衛門) 尾張丹羽郡の土豪。正勝と義兄弟の仲といわれ、ともに秀吉に仕えた。のちに但馬出石の城主となるが、1595年の秀次事件に連座して自害
稲田植元(大炊助) 1545年生まれ。父が讒言で切腹させられ、九歳で父の友人だった正勝に預けられ、のちに義兄弟の契りを結んだ。阿波入国の際は蜂須賀家の筆頭家老として入り、脇城をまかされた
坪内利定 1539年生まれ。1559年に信長のもとを出奔した前田利家をかくまったと伝わる
松原内匠 川の運送と普請にたけ、墨俣の築城で働いたと伝わる
梶田直繁 墨俣の築城に加わり、のちに秀吉の家臣となったと伝わる
日比野六大夫 1560年代の美濃攻めで働いたと伝わる
青山新七 秀吉を助けたとされるが、くわしいことは分かっていない
三輪吉高 のちに豊臣秀次に仕え、秀次事件で処分を受けたとされる

ただし「川並衆」という呼び名や、この顔ぶれの多くは『武功夜話』という記録にしか見えません。前野家に伝わったとされるこの文書は、1959年の伊勢湾台風のあとに旧家の土蔵から見つかったといわれ、成立や信頼性をめぐって議論が続いています。前野長康や稲田植元、坪内利定のようにほかの記録でも確かめられる人物もいますが、組織としての「蜂須賀党」がどこまで実在したのかは、慎重に見る必要があります。

稲田家はその後、徳島藩蜂須賀家の筆頭家老として淡路の洲本城をまかされ、明治のはじめには本藩との対立から庚午事変(稲田騒動)が起き、家臣たちが北海道の静内へ移り住むことになります。正勝と植元が結んだ義兄弟の縁は、三百年後まで二つの家の関係として続いたわけです。

墨俣(1566年):川を知る男の出番

信長が美濃の斎藤氏を攻めていた1566年ごろ、秀吉は長良川の西岸、墨俣に拠点を築いたとされ、正勝もこれに加わったと伝えられています。敵地の川べりに短い期間で砦を築くには、上流で材木を切り出して川に流し、人足を集めて一気に組み上げる必要があり、木曽川の水運と川筋の人びとを知る正勝の力が生きる場面でした。

ただ、「一夜で城が建った」という墨俣一夜城の話は、後世に大きくふくらんだ可能性が高いとされています。正勝や前野長康ら川筋の土豪が活躍する詳しい筋書きも、先に触れた『武功夜話』によるところが大きく、そのまま史実とは言い切れません。墨俣の実像は 墨俣城(墨俣一夜城) と 豊臣兄弟!第1〜8回 史実解説 で詳しく見ています。

墨俣一夜城のイメージイラスト。川を流してきた材木を引き上げ、夜のうちに柵と櫓を組む
墨俣一夜城のイメージイラスト。川を流してきた材木を引き上げ、夜のうちに柵と櫓を組む

上洛と京の警固(1568〜1569年)

1568年、信長が足利義昭を奉じて京へのぼると、正勝も近江の六角氏との戦いに加わり、そのまま上洛に従いました。京では警固にあたり、火事の際の働きで義昭から桐の紋を与えられたとも伝えられています。尾張の川筋の土豪が、将軍のいる都で働くまでになったわけで、このころから正勝は秀吉の組の中で欠かせない存在になっていきます。

金ヶ崎の退き口(1570年):越前からの撤退戦

1570年、信長は越前の朝倉義景を攻め、敦賀の金ヶ崎城を落としますが、そこへ妹お市の夫である浅井長政が離反したという知らせが届き、前後を挟まれる形になった信長は、ただちに京へ引き返します。これが金ヶ崎の退き口です。

このとき最後尾で追ってくる敵を食い止める殿(しんがり)を務めたのが秀吉で、正勝もその軍勢の中にいました。殿は全滅を覚悟する役目で、ここで生きて戻ったことが、秀吉と正勝の名を織田家中で高めることになります。信長が朽木谷を抜けて京へ戻った道筋は 金ヶ崎城 と 朽木谷城 で紹介しています。

姉川から小谷攻めへ(1570〜1573年):横山城で浅井を見張る

同じ1570年の姉川の戦いのあと、秀吉は浅井方の横山城を落として城番に入り、小谷城の浅井長政を見張る最前線を任されました。正勝も秀吉とともに横山城に詰め、翌1571年には浅井方に攻められた箕浦の救援で一番槍の手柄を立てたと伝えられています。同じ年には、弟の正元を伊勢長島の一向一揆との戦いで失いました。

小谷城を囲む戦いは三年におよび、信長は小谷の向かいの虎御前山に陣城を築いて浅井を締め上げていきます。1573年に小谷城が落ちて浅井氏が滅びると、秀吉は北近江をまかされて長浜城主となり、正勝も秀吉から所領を与えられて、秀吉の家臣という立場がはっきりしました。ここで、信長の家臣として秀吉の下についていた正勝が、秀吉の家の重臣になったわけです。横山城と小谷攻めの詳細は 横山城、虎御前山城跡、豊臣兄弟!第13〜17回 史実解説 をご覧ください。

小谷城跡からの眺め。浅井氏の本拠は三年の包囲の末に落ちた
小谷城跡からの眺め。浅井氏の本拠は三年の包囲の末に落ちた

天王寺の一番槍(1576年)

1576年、信長が大坂の石山本願寺を攻めた天王寺の戦いで、正勝は一番槍の功を挙げ、秀吉から感状と加増を受けたうえ、信長からも陣羽織を与えられたと伝えられています。のちに調略と交渉の人として知られる正勝ですが、この時期はまだ前線で槍を振るう武将でもありました。

播磨・中国攻め(1577〜1581年):三木、鳥取、そして龍野城主へ

1577年に秀吉が中国方面の攻略をまかされると、正勝も播磨へ向かいます。三木城を兵糧攻めにした三木合戦では、城を救おうとした毛利方の軍勢を退けたと伝えられ、1580年に播磨の長水城を落としたあと、秀吉から龍野城と五万石余りを与えられて、はじめて城主になりました。同じころ、秀吉の取り計らいで、正勝の娘と黒田官兵衛の子・長政との縁組がまとまり、秀吉を支える二人の重臣が家と家で結ばれます。

1581年の鳥取城攻めでは、長い包囲のあいだに周辺の城に降伏をすすめる役を担いました。力攻めではなく、城を落とす前に相手を降ろすという正勝のやり方が、ここではっきり見えてきます。龍野城については 龍野城 で、三木と鳥取の兵糧攻めは 豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説 と 鳥取城跡 で解説しています。

龍野城。播磨の平定後、正勝がはじめて城主となった城
龍野城。播磨の平定後、正勝がはじめて城主となった城

備中高松から中国大返しへ(1582年)

1582年、秀吉は備中高松城を堤で囲んで水攻めにし、正勝は城主の清水宗治に降伏を説きましたが、宗治はこれを受け入れませんでした。その最中の6月3日夜、京で信長が討たれたという知らせが秀吉の陣に届きます。このとき秀吉は、知らせを運んできた使者を押さえて秘密を守るよう正勝に命じたと伝えられています。

毛利に信長の死を悟られないうちに講和をまとめ、宗治の切腹と引きかえに城を開かせると、秀吉の軍は6月5日ごろから京へ向けて引き返しはじめ、山崎で明智光秀を破りました。これが中国大返しです。交渉と機密という、目立たないけれど失敗の許されない仕事の中心に正勝がいたことになります。水攻めと大返しの詳細は なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか と 豊臣兄弟!第27〜29回 史実解説 で扱っています。

▽ よく語られる話
蜂須賀小六は野盗の頭領で、若いころの秀吉を拾って世話をした。
▼ 史実ではこうです
正勝は斎藤道三、ついで信長に仕えた尾張の土豪で、信長の家臣として秀吉の下についたところから二人の歩みが始まります。野盗の話も矢作橋の出会いも江戸時代の読み物が広めた創作で、実際の正勝は、墨俣から中国大返しまで、秀吉の主な戦いのほとんどに居合わせた織田家の武将でした。

二十年を並べてみると

年 できごと 正勝の役まわり
1566年ごろ 墨俣に拠点を築く 川の水運と人足の差配にかかわったと伝わる
1568年 信長の上洛 六角攻めに加わり、京の警固にあたる
1570年 金ヶ崎の退き口 殿を務めた秀吉の軍勢に従う
1570〜1573年 姉川・横山城・小谷攻め 横山城で浅井を見張り、箕浦で一番槍
1573年 小谷落城、秀吉が長浜城主に 秀吉の家臣として所領を得る
1576年 天王寺の戦い 一番槍の功
1577〜1580年 播磨攻め・三木合戦 毛利方の援軍を退け、龍野城主に
1581年 鳥取城攻め 周辺の城に降伏をすすめる
1582年 備中高松城・中国大返し 降伏の説得、機密の保持、講和

並べてみると、若いころは槍働きもしていた正勝が、年を重ねるにつれて交渉と段取りの役へ移っていったことが分かります。秀吉が兵を失わずに城を落とす戦い方を身につけていった時期と、正勝の役まわりが変わっていった時期は、ちょうど重なっています。

織田家のあと

本能寺の変のあと、正勝は毛利との国境を決める交渉に三度中国へ下り、賤ヶ岳の戦い、四国攻めと秀吉の天下取りに従いました。四国攻めのあと阿波一国を与えられながら、自分では受けずに子の家政に譲り、翌1586年に亡くなります。その経緯は 蜂須賀正勝の武功と最期 で詳しく扱っています。

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蜂須賀正勝(小六)の武功と最期:なぜ阿波を息子に譲ったのか、そして九か月後の死

織田家での二十年のあと、正勝はなぜ阿波一国を自分で受け取らなかったのか。

よくある質問

Q. 蜂須賀正勝は、はじめから秀吉の家臣だったのですか?
A. はじめは信長の家臣で、秀吉の下につけられた立場でした。秀吉が長浜城主になった1573年ごろから、秀吉の家臣としての立場がはっきりしていきます。

Q. 墨俣一夜城には本当にかかわったのですか?
A. 墨俣の築城に加わったと伝えられていますが、「一夜で建った」という話や詳しい筋書きは後世の記録によるもので、どこまで事実かははっきりしません。

Q. 前野長康とはどういう関係ですか?
A. 同じ木曽川筋の土豪で、若いころから行動をともにし、ともに秀吉を支えた仲間とされています。二人の活躍を詳しく伝える『武功夜話』は前野家に伝わった記録です。

まとめ

この記事の要点
  • 正勝は道三、信長に仕えた尾張の土豪で、信長の家臣として秀吉の下についたところから二人の歩みが始まりました
  • 墨俣、金ヶ崎の退き口、小谷攻め、天王寺、三木、鳥取、高松と、秀吉の主な戦いのほとんどに正勝は居合わせました
  • 小谷落城で秀吉の家臣となり、龍野城主となったあとは、交渉と機密の役で中国大返しを支えました

秀吉が足軽から天下人へ駆け上がった二十年は、そのまま正勝が土豪から城主へ上っていった二十年でもあります。第37回での退場は、秀吉にとって、織田家時代をともに知る数少ない仲間を失ったことを意味していました。

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