※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
時代劇や大河ドラマによく出てくる「庄屋(しょうや)」。村のまとめ役だということは何となくわかっても、名主(なぬし)とはどう違うのか、どんな仕事をしていたのか、武士なのか百姓なのかと聞かれると、意外と答えにくいものです。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回でも、伊藤健太郎さんが大和郡山の庄屋・石川清兵衛を演じます。この記事では、庄屋とは何かを、名主・肝煎(きもいり)との違い、仕事と身分、そして戦国時代の村から江戸時代の村役人になるまでの流れで解説します。
- 庄屋は、江戸時代の村の長にあたる村役人。年貢を取りまとめて領主に納める責任を負い、村の自治の中心にいた
- 同じ役目を、関西では庄屋、関東では名主、北陸・東北では肝煎と呼ぶことが多い
- 身分は武士ではなく百姓。村の有力な百姓の家が世襲することが多かったが、入札(選挙)で選ぶ村もあった
- 村全体で年貢を請け負う「村請(むらうけ)」の仕組みが、庄屋の役目の土台になった

庄屋とは:江戸時代の村の長
庄屋とは、江戸時代の村で、村の長として働いた村役人のことです。領主の側からみれば、村に年貢を納めさせるための窓口であり、村の側からみれば、村の暮らしを取り仕切るまとめ役でした。
江戸時代の村には、庄屋を筆頭に、それを補佐する組頭(くみがしら)、庄屋の仕事を見張る百姓代(ひゃくしょうだい)が置かれ、あわせて「村方三役」と呼ばれました。百姓代は江戸時代の中ごろ以降、村の騒動をきっかけに置かれるようになった村が多いとされます。
庄屋・名主・肝煎の違い
庄屋と名主は、別の役職ではありません。同じ村の長を、地域によって違う名で呼んだものです。おおまかには、関西では「庄屋」、関東では「名主」、北陸や東北では「肝煎」と呼ぶことが多かったとされます。
そのため、同じ江戸時代の村の話でも、上方が舞台の話には庄屋が、江戸近郊の話には名主が出てくるのが普通です。『豊臣兄弟!』の石川清兵衛が「庄屋」とされているのは、舞台が大和、つまり関西だからといえます。
なお「庄屋」という名は、中世の荘園の「荘(庄)」に由来し、荘園の現地で管理にあたった者の屋敷や役目を指す言葉から来たといわれます。
庄屋の仕事:年貢から水の管理まで
庄屋の仕事は多岐にわたりました。主なものは次のとおりです。
- 年貢の取りまとめ:領主から村に割り当てられた年貢を、村の家ごとに割り振って集め、領主に納める
- お触れの伝達:領主や幕府からの法令を村人に伝える
- 村の書類づくり:戸籍にあたる帳面や、領主に出す願書・届書をつくる
- 領主との交渉:凶作のときの年貢の減免などを村を代表して願い出る
- 用水や山野の管理:田に引く水や、村で共同で使う山や野の利用を取りまとめる
なかでも重いのが年貢です。江戸時代の年貢は、一人ひとりではなく村全体に対して割り当てられ、村がまとめて納める仕組みでした。これを「村請(むらうけ)」といいます。庄屋は、その村請の責任者だったのです。
庄屋は武士? 百姓?
庄屋の身分は、武士ではなく百姓です。ただし村のなかでは別格で、多くは村いちばんの有力な百姓の家が代々つとめました。村によっては、村人の入札、つまり選挙で庄屋を選ぶこともありました。いずれの場合も、領主の認可が必要でした。
その働きへの見返りとして、庄屋には年貢や諸役の一部を免除されたり、「庄屋給」と呼ばれる手当が支払われたりしました。庄屋の屋敷には村の寄り合いに使う広い座敷があり、いまも各地に「庄屋屋敷」として残っているものがあります。
戦国の村から、江戸の庄屋へ
では、戦国時代の村に庄屋はいたのでしょうか。戦国時代の畿内の村では、「乙名(おとな)」や「年寄」と呼ばれる有力な百姓たちが村の運営を担い、村人がみずから掟を定める自治が育っていました。荘園の現地で年貢の取りまとめにあたる役目の者もいました。
こうした村の姿を大きく変えたのが、豊臣政権の検地です。秀吉や秀長は、田を実際に測って石高を決め、村ごとに検地帳をつくりました。これによって、年貢を「村」を単位に課す仕組みが整い、江戸時代の村請と、その責任者としての庄屋の役目につながっていきます。
『豊臣兄弟!』の石川清兵衛は、ちょうどこの変わり目にいる村のまとめ役です。興福寺の荘園の古い台帳で年貢を納めてきた村が、秀長の検地で武家の物差しに組み込まれていく。その入口に立つ人物として描かれています。清兵衛の立場は石川清兵衛とはで、秀長の検地を担った家臣は小堀正次とはで、検地そのものは太閤検地と刀狩とはで解説しています。
庄屋はいつなくなったのか
庄屋や名主の制度は、明治維新後の改革のなかで廃止され、村の長の役目は戸長(こちょう)などに引き継がれていきました。江戸時代に二百六十年あまり続いた村の仕組みは、近代の町村制へと姿を変えたのです。
まとめ
庄屋は、江戸時代の村の長にあたる村役人で、関西では庄屋、関東では名主、北陸・東北では肝煎と呼ばれました。身分は百姓でありながら、村全体の年貢を請け負い、法令の伝達や書類づくり、領主との交渉まで担う、村の自治の中心でした。その役目の土台には、豊臣政権の検地で整った「村を単位に年貢を課す」仕組みがあります。
