- 丹羽長秀は織田信長の重臣で、「米五郎左」と呼ばれた実務の人
- 安土城の普請総奉行をつとめ、若狭一国を任された
- 清須会議で秀吉に付き、賤ヶ岳のあと越前と加賀を得て百万石を超える大大名になった
- 信長四天王のうち、勝家も光秀も滅びたなかで、長秀だけが天下の向きを決める側に残った
丹羽長秀(にわ ながひで)は、織田信長に若いころから仕え、最後まで信長の中枢にいた武将である。戦場の逸話は柴田勝家や明智光秀ほど残っていない。それでも信長は、城を築くことも、国を治めることも、軍を動かすことも、この男には等しく任せた。そして信長が死んだあと、誰に付くかを選ぶ側に立った数少ない一人でもある。
「米五郎左」と呼ばれた男
長秀は尾張の出で、信長がまだ尾張一国も固めていないころから仕えている。通称は五郎左衛門。信長が家臣を評して、木下藤吉郎を「禿げ鼠」、丹羽五郎左を「米五郎左」と呼んだ——という話が伝わる。米のように毎日なくてはならない、という意味である。
ただしこの評語が見えるのは後の世の書物で、同時代の記録で確かめられるものではない。それでも語り継がれてきたのは、長秀の働き方がまさにそういうものだったからだろう。派手な単独の戦功ではなく、いつも何かが回るために必要な位置にいた。
信長は長秀に自分の一族の娘を嫁がせ、のちに惟住(これずみ)という姓まで与えている。家臣というより、織田の家そのものに組みこんだ扱いである。
信長が長秀にだけ任せた三つのこと
織田家の重臣にはそれぞれ役割があった。柴田勝家は北陸の軍団長、明智光秀は畿内、羽柴秀吉は中国方面。いずれも「戦う方面」を任された人である。
長秀だけが違った。軍を率いて各地へ出ながら、若狭一国を治め、そのうえ安土城の普請を仕切った。戦・行政・築城の三つを同時に任された重臣は、織田家に他にいない。これが「地味」と言われる正体でもある。ひとつの方面を背負っていないから、その人の名前で呼ばれる戦がない。
安土城の普請総奉行
安土城は、石垣の上に高くそびえる建物を城の中心に据えた最初期の城である。その普請を現場で仕切ったのが長秀だった。石を集め、人を割り当て、工期を押さえる——武功とは別の種類の力が要る仕事である。
信長がこの役を長秀に振ったこと自体が評価だと言っていい。城は権威を見せるための装置で、失敗が許されない。同じころ大和では松永久秀が多聞山城で石垣と瓦と白壁を試しており、高い建物を城の顔にする発想は各地で並行して育っていた。安土はその到達点にあたる。
若狭一国 ── 海に開いた国を任される
元亀のはじめ、長秀は若狭を与えられた。若狭は小さな国だが、日本海の湊を抱え、京へ物資を運ぶ道が通っている。守護だった武田氏の後瀬山城は山の上に構えた中世の城で、長秀はその若狭を織田の体制に組み替えていった。のちにこの地は京極高次の小浜城へと移り、海に面した近世の城下町になる。
一国を任されるというのは、年貢を取るだけの話ではない。検地をし、湊を押さえ、国衆をまとめる。長秀が「治める側の人」でもあったことが、この配置からわかる。

後瀬山城跡(福井県小浜市)の山上に残る石垣。若狭守護・武田氏の城で、長秀が任された若狭一国の中心はここにあった
本能寺のあと ── 大坂で甥を討った日
本能寺の変が起きたとき、長秀は四国へ渡る軍のなかにいた。総大将は信長の三男・神戸信孝で、長秀はその副将である。渡海の直前に信長の死が伝わり、軍はほどけた。
このとき大坂にいた織田信澄が討たれている。信澄は信長の甥で、明智光秀の娘を妻にしていた。光秀と通じているのではないかという疑いのなかで、信孝と長秀が討った。確かな謀叛の証は残っていない。動揺のなかで、疑わしいというだけで一人が消された——変の直後の畿内がどういう空気だったかを、この一件はよく表している。
長秀はそのまま山崎の戦いに加わり、光秀は討たれた。本能寺から山崎までの十一日間に、どの武将がどう動いたかは別の記事にまとめている。
清須会議で秀吉を選んだ
信長と嫡男を同時に失った織田家が、後継と領地を決めるために集まったのが清須会議である。長秀は秀吉に同調し、三法師を推した。
ここが長秀の生涯でいちばん重い分岐だと思う。序列でいえば柴田勝家が筆頭で、長秀は勝家と並ぶ古参である。その長秀が秀吉の側に立ったことで、会議の重心が動いた。清須会議で何が決まり、何が決まらなかったのかは、第30〜31回の史実解説でも扱っている。
長秀はこのとき若狭に加えて近江の二郡を得ている。取り分としては大きくない。彼が動いた理由を損得だけで説明するのは難しい。
賤ヶ岳、そして越前へ
勝家と秀吉がぶつかった賤ヶ岳の戦いで、長秀は秀吉方に立った。勝家が本陣を置いた玄蕃尾城は、いまも土の遺構がそのまま残る山城である。
戦後、長秀は越前と加賀の二郡を与えられた。若狭と合わせて百万石を超える。数字には諸説があるが、いずれにせよ織田の旧臣で一、二を争う大身になった。勝家が持っていた北陸を、そのまま引き受けた形である。
そして二年後、長秀は没する。享年五十一。腹中の病だったと伝わり、自ら腹を切って病のかたまりを取り出し秀吉に送りつけた、という壮絶な逸話も残る。ただしこれも後の世の書物に見える話で、同時代の記録で確かめられるものではない。
「長秀」という名前のゆくえ
秀吉の弟は、はじめ「長秀」と名のっていた。豊臣秀長である。丹羽長秀と同じ名を持っていた時期があり、のちに文字を入れ替えて秀長に改めている。なぜ改めたのかは別の記事にまとめたが、名前ひとつを取っても、当時の織田家中で丹羽長秀という名がどれだけ重かったかが伝わってくる。
丹羽家のその後 ── 百万石から、二本松へ
跡を継いだ長重は、若くして百万石を受け取り、そして急速に削られた。秀吉に越前を取り上げられ、若狭へ、さらに加賀の小松城へ。関ヶ原では西軍に付いて改易された。
それでも丹羽家は終わらなかった。長重は徳川の下で大名に戻り、陸奥の棚倉城を築き、白河を経て、子の代に二本松城へ入る。以後、幕末まで二本松藩十万石の主として続いた。戊辰戦争で少年隊が戦った、あの二本松である。
百万石から十万石へ。ただし幕末まで家が残ったという一点では、織田の重臣のなかで最も長く続いた家のひとつだった。
よくある疑問
Q. 「米五郎左」とはどういう意味ですか。
米のように毎日欠かせない者、という評です。信長の言葉として伝わりますが、見えるのは後の世の書物で、同時代の記録では確かめられていません。
Q. 丹羽長秀は何万石でしたか。
賤ヶ岳のあと、若狭・越前・加賀二郡で百万石を超えたとされます。百二十三万石という数字もよく挙がりますが、石高の算定には諸説があります。
Q. 信長四天王とは誰ですか。
柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀を指す呼び方です。ただしこれも後世の整理で、当時そう呼ばれていたわけではありません。
Q. 豊臣秀長と関係がありますか。
血縁はありません。秀吉の弟が一時「長秀」と名のっていたため、名前が重なっただけです。くわしくは改名の記事をご覧ください。
まとめ
丹羽長秀は、戦い、国を治め、城を築いた。織田家でこの三つを同時に任された重臣は他にいない。それでも彼の名で呼ばれる戦がないのは、いつも誰かの名目の下で全体を回す位置にいたからである。信長が死んだあと、その長秀が秀吉を選んだ。四天王のうち勝家も光秀も滅びたなかで、天下の向きを決める側に立ったのはこの人だった。そして家は百万石から十万石へ落ちながら、幕末の二本松まで続いている。

