那須神社(金丸八幡宮):与一が祈ったと伝わる社と、銅の棟札が書き換えた本殿の年代

栃木県大田原市南金丸にある那須神社は、かつて金丸八幡宮と呼ばれ、那須氏と大関氏が代々氏神として祀ってきた社です。屋島の戦いで扇の的を射た那須与一が祈願したと伝わり、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で参詣して涙したのもこの八幡宮でした。本殿と楼門は国の重要文化財、境内は国の名勝。そしてこの本殿は、一枚の銅の棟札が見つかったことで、建てられた年代がまるごと書き換えられた建物でもあります。

この記事のポイント
  • 旧称は金丸八幡宮。平安末期に八幡宮となり、那須氏・大関氏の氏神として続いた
  • 本殿(寛永十八年)と楼門(寛永十九年)が国指定重要文化財
  • 境内は国指定名勝「おくのほそ道の風景地 八幡宮(那須神社境内)」
  • 銅棟札の存在から、本殿は戦国期ではなく寛永十八年の造営と判明した
  • 楼門の造営には日光の大工が関わっていたことが、部材の墨書からわかっている
  • 手水舟と石燈籠は芦野石製。いずれも重要文化財の附(つけたり)指定
  • 喜連川城(大蔵ヶ崎城):五千石で十万石格、参勤交代をしなかった足利の末裔

那須神社の参道と楼門

石灯籠にはさまれた石畳の参道の先に楼門が立つ。曽良が目にしたのも、この石燈籠と手水舟だった

目次

那須神社とはどんな社か

大田原市のほぼ中央、平坦な土地に鎮座しています。祭神は八幡神。現地の案内板によれば、創建は古く、平安末期の十二世紀末には八幡宮となり、以後、中世・近世を通じて那須氏、そして大関氏の氏神として祀られてきました。

那須神社の案内板

地元の協議会が立てた案内板。社の来歴と社宝、例大祭の流鏑馬まで簡潔にまとめられている

那須氏から大関氏へ、氏神が引き継がれているのが特徴です。烏山城の那須氏が那須郡の総領だった時代も、黒羽城の大関氏が藩主だった時代も、この八幡宮が那須郡の中心の社であり続けた。支配者は替わっても、社は替わらなかったわけです。

秋の例大祭では流鏑馬が行われます。弓の社であることを、いまも祭りが示しています。

与一が祈り、芭蕉が涙した八幡宮

『平家物語』で那須与一が扇の的を射るとき、神仏の名を連ねて祈る場面はよく知られています。芭蕉は元禄二年(一六八九)、黒羽に逗留した際にこの八幡宮に参詣し、与一が「別しては我国氏神正八幡」と誓ったのがこの社であると聞いて、感涙にむせんだと書き残しました。

那須与一の騎馬像

近くの道の駅に立つ那須与一の騎馬像。弓を引き絞り、扇を狙う姿にかたどられている

「我が国の氏神」というのは、与一にとっての国、すなわち那須の氏神という意味です。だからこの八幡宮が名指しされる。芭蕉が旅の途中でわざわざ立ち寄り、その場で涙した理由も、そこにあります。

もっとも、与一という人物が史料の上でどこまで確かめられるかは別の問題です。那須神田城跡の案内板も、与一の生誕については「伝えられている」という書き方にとどめています。この社の由緒も同じで、伝承として受け止めるのが正確です。

太刀 銘 弘綱 ― 与一が奉納したと伝わる社宝

那須神社には、「太刀 銘 弘綱」が社宝として伝来しています。案内板は、与一が屋島の戦いで扇の的を射落とすことができたのを感謝して奉納したと言われる太刀、と紹介しています。

また、この社の太々神楽の由来を記した案内板には、さらに踏み込んだ伝承が載っています。文治元年(一一八五)に与一が屋島の戦功により那須の総領となり、同三年(一一八七)に土佐杉をもって社殿を再建し、社領を寄進した。そして京都から神職と伶人を招いて祭祀をつかさどらせた――というものです。

土佐杉というところに注目したい。屋島は讃岐、土佐は隣国です。西国での戦功と、西国の材で社殿を建てたという話が結びついています。伝承がどう組み立てられているかが見える例です。

銅の棟札が、本殿の年代を書き換えた

この社でいちばん面白いのは、建物の年代をめぐる話です。

▽ かつて考えられていたこと
那須神社の本殿は戦国時代の建造である。
▼ 調査でわかったこと
縦七十七センチ、横二十二センチ、厚さ三ミリの銅製の棟札が伝わっており、その銘に、寛永十八年(一六四一)に黒羽藩主・大関高増が施主となって八幡宮を建立したことが記されていました。平成二十三年度の本殿建物調査で、この棟札の存在と建築様式の比較から、本殿は寛永十八年の造営であると判明しました。

戦国から江戸初期へ。百年近く年代がずれたわけです。木の棟札は失われやすいものですが、銅でつくられていたために残った。物証ひとつで定説が動くという、文化財調査のわかりやすい実例です。

そしてこの棟札自体も、本殿の附(つけたり)として重要文化財に指定されています。建物とセットで守るべきものと判断されたということです。

本殿 ― 桃山の彩色と、沢瀉の紋

本殿は木造の三間社流造、屋根は瓦棒銅板葺。正面に簡素な向拝が付いています。

外から見ると塗装の剥落と褪色が進んでいますが、案内板によれば、柱や長押・桁・扉などに施された彩色や金箔押しはいずれも当初のものです。後から塗り直されていない。だからこそ、華やかな桃山風の意匠がそのまま残っています。

もうひとつの特徴が、沢瀉(おもだか)の丸紋を多用していること。これは大関家の定紋です。神社の本殿に、施主である大名家の家紋がくり返し入る。中世の社殿にはあまりない、近世らしい造り方だと案内板は説明しています。

中世の形式や技法を受け継いだ古い要素と、桃山建築の粋を発揮した新しい要素が同居している。中世から近世への転換期に位置づけられる本殿建築というのが、文化財としての評価です。

楼門 ― 日光の大工が関わっていた

楼門は本殿と一連で、寛永十九年(一六四二)の造営です。三間一戸の楼門で、上層に屋根を架け、下層に高欄付きの縁をめぐらせています。

那須神社楼門の組物

楼門を見上げる。柱と柱のあいだにも組物を詰めた「詰組」が、禅宗様という様式を示している

建築様式は禅宗様。柱を受ける礎盤、頂部に粽(ちまき)をつけた柱、そして柱と柱のあいだにも組物を配置する詰組。いずれも格式の高い造りです。案内板は、上層・下層ともに詰組としたところに特色があり、特に上層は尾垂木付きの四手先組だと説明しています。尾垂木は強度を考えて一本の木から削り出されている、とも。

そして決定的な事実がひとつ。昭和五十六年の解体修理で、部材の墨書から、楼門の造営に日光の大工が携わっていたことが判明しました。

寛永十九年といえば、日光東照宮の寛永の大造替が終わって間もない頃です。全国から集められた名工が日光にいた。その技術が、五十キロほど北東のこの八幡宮にも流れてきていた。建物を解体しなければわからないことが、墨書きひとつで明らかになりました。

手水舟と石燈籠は、芦野石でできている

本殿・楼門の重要文化財指定には、附として石造物も含まれています。手水舟一基と石燈籠一対です。

那須神社の手水舟の案内板

手水舟の案内板。寛永十九年に大関高増が所願成就のため奉納したと銘文に刻まれている

手水舟は高さ七十七センチ、幅百五十七センチ、奥行き九十センチ。石は芦野石です。前面には「奉造立手水舟一所願成就処」「于時寛永十九年壬午五月吉祥辰日」「施主大関土佐守高増」と刻まれています。奉納の理由と年月日と施主が、すべて石に残っている。

那須神社の石灯籠の案内板

拝殿前の石燈籠一対。基礎から宝珠まで約二百九十センチ、竿の直径は約四十五センチある

石燈籠も寛永十九年三月の奉納で、石質は芦野石と見られています。基礎・中台・火袋・笠・請花がそろって六角形、笠の蕨手は大きな渦巻き模様。竿は円筒形で中間に節があり、そこに大関高増が奉納したという銘文が刻まれています。

芦野石は、芦野氏陣屋跡のある那須町芦野の石材です。芦野の旗本領で切り出された石が、黒羽の大名の手で那須郡の総鎮守に奉納されている。那須という地域が石を通してつながっていることが、この二つの重文からわかります。

甲冑が語る、廃藩の年の奉納

市指定有形文化財の甲冑(紺糸威)も伝来しています。案内板によれば、黒羽城主・大関伊予守増興が着用したもので、明治四年八月、黒羽藩知事の大関増勤が氏神である那須神社に奉納したものです。

那須神社の甲冑の案内板

甲冑(紺糸威)の案内板。奉納は明治四年八月、廃藩置県の直後にあたる

明治四年七月に廃藩置県が行われています。その翌月の奉納です。藩がなくなり、藩知事という職も消えるその時に、最後の藩主が先祖の甲冑を氏神に納めた。武家としての役目が終わる瞬間の行為が、文化財の説明文のなかに残っています。

「大関高増」は二人いる

この社を調べるとき、ひとつ注意が要ります。大関高増という名前の人物が二人いることです。

ひとりは戦国の大関高増。天正四年(一五七六)に余瀬の白旗城から移って黒羽城を築いた人物です。もうひとりは、その子孫にあたる黒羽藩の藩主・大関高増。寛永十八年から十九年にかけて、那須神社の本殿・楼門・手水舟・石燈籠をまとめて整備したのはこちらです。

城を築いた高増と、社殿を建てた高増。同じ名前で、やっていることの性格がまるで違います。戦国から江戸へという時代の変わり目が、大関家の当主の事績にそのまま出ているとも言えます。

神楽と獅子舞

那須神社には、県や市の無形民俗文化財に指定された芸能が伝わります。

太々神楽は、もとは三十六座あったものが現在は十座。毎年三月十五日に奉納されています。案内板は、その起源の口伝が平安朝末期にさかのぼると記します。

獅子舞は、大関増清が応永年間(一三九四〜一四二八)に余瀬で白旗城を築いた際、地鎮として舞われたものと伝えられます。雄・雌・仔の三頭の獅子が小太鼓を打ちながら舞い、笛とササラが囃す。案内板は「雄こん素朴なことに特色がある」と表現しています。かつては九月十五日の例大祭に、黒羽城主みずからが参拝して観賞したそうです。

見どころとアクセス

おくのほそ道の風景地 八幡宮の標柱

国指定名勝「おくのほそ道の風景地 八幡宮(那須神社境内)」の標柱。境内そのものが名勝である

境内には樹齢四百五十年ともいわれる御神木をはじめ、杉並木が続きます。参道の石畳、石燈籠、手水舟、そして楼門と本殿。案内板はこれらを、曽良が訪れたときに実際に目にした風致景観を今に伝えるものだと説明しています。三百年以上前の旅人が見た景色を、ほぼそのまま見られる場所ということです。

那須神社の鳥居と参道

参道入口の鳥居。ここから杉並木の下をまっすぐ楼門まで歩く

所在地は栃木県大田原市南金丸一六二八。道の駅那須与一の郷が隣接しており、与一の騎馬像や与一伝承館もあわせて回れます。大田原城跡からも近く、那須の史跡めぐりの起点にしやすい場所です。

那須神社で見られるもの
太々神楽と獅子舞の案内板
太々神楽と獅子舞の案内板。与一が社殿を再建し社領を寄進したという伝承が記されている
那須神社の御由緒
那須神社の御由緒。祭神と境内社が列記されている
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