春日山城とは
春日山城は、上杉謙信の居城である。天守はない。石垣もほとんどない。山そのものが城だった。
標高約180メートルの春日山の尾根と斜面に、無数の曲輪と屋敷が刻まれている。本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る中心部を、案内板は「実城(みじょう)」と呼ぶ。日本100名城第32番、国指定史跡。

「春日山城跡案内図」。山全体に曲輪と屋敷跡が散らばっているのが分かる(新潟県上越市中屋敷)
三の丸に、景虎が住んでいた
登り始めてまず出会うのが三の丸である。案内板によれば、謙信公の養子「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」などを総称して「三の丸屋敷」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、景虎屋敷跡の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。

「三の丸」の案内板。景虎屋敷跡と米蔵跡についての解説が記されている
三郎景虎は、小田原の北条氏康の七男である。上杉氏と北条氏の同盟締結の際に謙信の養子となり、謙信が自らの名を与えるなど破格の待遇を受けていた。だが謙信の死後、跡目を争った御館の乱で敗れ、悲運の死を遂げる。

「上杉三郎屋阯」の石柱。景虎の屋敷はこの三の丸にあった
米蔵跡の名が示すとおり、三の丸は城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。そして案内板は、春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁は、このような三の丸の防御の役割を果たしていたと記す。当時はこの土塁が各郭に築かれ、守備をいっそう強固にしていたと想像される、と。
春日山城もまた、土の城だった。
二の丸は本丸を帯のように囲む

「二の丸」の案内板。本丸を帯状に囲む配置の意味が説明されている
二の丸は、実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成している。案内板いわく本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示す。
古絵図には「御二階」「台所」と記されたものもあり、今も笹井戸といわれる井戸跡が残る。山の上で人が煮炊きをして暮らしていた痕跡である。

「天守閣阯」の石柱。ただし当時ここに天守があったわけではない
山頂近くには「天守閣阯」の石柱が立つ。だが案内板が使う言葉は一貫して「実城」である。天守という言葉が生まれる前の城だということが、この呼び名の差に表れている。

毘沙門堂阯。謙信が毘沙門天を祀り、出陣前に籠もったと伝えられる
屋敷の造り方に、城の年輪が残っている
この城でいちばん面白いのが、上杉景勝屋敷の案内板である。考古学的な観察が、そのまま書かれている。

「上杉景勝屋敷」の案内板。屋敷跡の造り方から普請の段階を読み解いている
景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は、総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削り出し、数段で一つの屋敷が形成されている。これに対して、春日山神社から谷愛宕にかけての屋敷跡群は雛壇状に並んで造られている。両者は対照的だ、と案内板は言う。
そして結論。「景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず定型化していないのは、春日山城の古い段階での普請を示しているといえる。」
つまり屋敷の造り方の違いが、そのまま城の建設時期の違いを示している。地形に従って不揃いに削り出した区画が古く、整然と雛壇状に並ぶ区画が新しい。城の年輪が、土の形に残っている。文書が残らない中世城郭を、地面の形から読む——その手つきが、この一枚の案内板に凝縮されている。
なお景勝は謙信の姉・仙洞院の子で、直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の一人にまでなった。
直江家は三代にわたって仕えた

「直江屋敷」の案内板。お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られている
直江屋敷は、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られている。現在は遊歩道があって使われなくなっているが、郭と郭をつなぐ古道も残っているという。
案内板が伝える直江家の来歴が印象深い。直江家は上杉謙信公の父・為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍した。そして景勝が会津へ国替えになった時に同行し、米沢藩三十万石の城主になった。
為景、謙信、景勝の三代。兼続は御館の乱で頭角を現し、与板城の直江家を継ぎ、長谷堂城で最上義光と戦い、最後は米沢城で三十万石に減った上杉家を支えた。その長い道のりの出発点が、この山の中腹にある。
山を出た方が、負けた
三の丸に景虎の屋敷があり、別の尾根に景勝の屋敷がある。跡目を争った二人は、謙信が生きているあいだ、同じ山に住んでいた。
天正六年(1578)に謙信が急死すると、二人は割れる。景勝は軍事拠点である春日山城を占拠し、景虎は政治拠点である麓の御館へ入った。翌年、御館は落ち、景虎は鮫ケ尾城で自害する。
山に残った方が勝ち、山を出た方が負けた。謙信が四十年かけて刻んだこの山は、最後にそういう形で決着をつけている。

杉木立の間にはためく「毘」の幟。眼下に高田平野と日本海が広がる
上杉家が会津へ移ると春日山城は廃され、やがて平地に高田城が築かれた。その高田城もまた石を使わない土の城だった。山を降りても、土は捨てなかったことになる。
春日山城の現地写真











春日山城・場所・アクセス
〒943-0802 新潟県上越市中屋敷
えちごトキめき鉄道「春日山駅」から徒歩約40分、またはバス。北陸自動車道 上越インターから車で約15分。ものがたり館・大手道口・春日山神社口などから登れる。
山全体が城跡なので、案内図で郭の配置をつかんでから歩きたい。三の丸・二の丸・本丸・毘沙門堂・直江屋敷・景勝屋敷と回ると一時間半ほど。麓の御館とあわせて訪ねると、御館の乱の構図が地形として理解できる。
