津城:伊勢国司北畠家一族長野氏(細野藤光)の居城 津城(安濃津城)【お城特集 日本の歴史】


【城名】
津城(安濃津城)

【城の説明】
津城は三重県津市にあった由緒ある城である。
北畠家が城主だった頃は「安濃津城(あのつじょう)」と呼ばれていた。

城は津市街の中心部に位置しており、北は安濃川、南は岩田川に挟まれこれらを天然の外堀としていた。この時代の津市の呼称は安濃津(あのつ)であり、平安時代より伊勢国の政治経済の中心地となっていた。このことから安濃津城と呼ばれていた。

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津城の起源は戦国時代の永禄年間に、長野氏の一族「細野藤敦」が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。その後、伊勢国司の北畠家の一族「長野氏」が治める城として代々続いてきた。

永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により安濃津城は籠城の末最後は降伏し、織田掃部頭(津田一安)が入城する。翌年には信長の弟の「織田信包」が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二ノ丸・三ノ丸を整備した。そして天正5年(1577年)には5重天守と小天守が完成した。

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文禄3年(1594年)豊臣秀吉の時代になると、信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移封され、代わりに秀吉の家臣「富田一白」が5万石を与えられ入封した。富田一白の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍約3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高軍は1,300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失した。

そして激戦の末、木食上人の調停により開城となった。しかし、この奮戦により戦後徳川家康から2万石の加増を受けた。慶長13年(1608年)信高は伊予宇和島城に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石にて入封した。

※大阪城の豊臣秀頼の抑えとして高虎を起用したと言われている。

高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。大坂の陣の戦功により元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、藤堂家は32万3,000石の大大名となった。

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津の城下町は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄えた。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となった。

明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、以後、建造物は破却された。その後、「お城公園」として本丸跡に日本庭園が整備され、昭和33年(1958年)に丑寅櫓が復元された。 現在本丸跡の日本庭園入口には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。






【津城・場所・アクセス】
〒514-0035 三重県津市西丸之内

【津城地図】



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