栂牟礼城:佐伯惟治が築城し関ヶ原の戦い後は毛利高政の入封により廃城となった栂牟礼城【お城特集 日本の歴史】

栂牟礼城/アクセス・場所・地図 佐伯惟治が築城し関ヶ原の戦い後は毛利高政の入封により廃城となった栂牟礼城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
栂牟礼城

【栂牟礼城の説明】
栂牟礼城は大分県佐伯市弥生大字井崎上小倉にあった山城である。
築城時期は不明だが、大永年間に「佐伯惟治」によって築かれたと伝えられている。

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大永7年(1527年)、主君である「大友義鑑」に謀反の企てがあると疑われ、「臼杵長景」を大将に約2万の軍勢で攻められた。しかし、栂牟礼城は天然の要害の山城でもあり、この時は見事に城を守り抜いた。その後、義鑑より和議の話を持ち掛けられ惟治は城を明け渡して日向国へと退く。

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しかし、日向へ退去する途中に謀殺されてしまう。その後も栂牟礼城は佐伯氏の一族により統治していたと考えられているが、天正6年(1578年)、九州統一を目指す島津義久・義弘兄弟との間で勃発した「耳川の合戦」で大友氏は島津軍に大敗。

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このとき、佐伯惟教、惟真、鎮忠などが討死し、家督は惟真の子の「佐伯惟定」が継いだ。大友氏は豊臣秀吉の援助により滅亡を逃れ豊後一国の支配を安堵された。大友宗麟が死ぬと「義統」が跡を継いだが、朝鮮の役での敵前逃亡が原因で大友家は改易となった。

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佐伯氏もこの時、主家と共に領地を失っている。その後しばらくの間、栂牟礼城の詳細は不明だが慶長5年(1600年)に勃発した「関ヶ原の戦い」で功績のあった「毛利高政」が2万石にて佐伯を与えられた。

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高政は「栂牟礼城」が山城で近代城郭としては見合わないとし、新たに「佐伯城」を築き城下町を整備した。これにより「栂牟礼城」は廃城となる。現在の城跡には堀切や土塁、石垣などが残るのみである。






【栂牟礼城・場所・アクセス】
大分県佐伯市上岡(栂牟礼山)

【栂牟礼城地図】



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