玉縄城:北条早雲が築城し北条征伐の際には城主北条氏勝が降伏・開城した玉縄城【お城特集 日本の歴史】

玉縄城/アクセス・場所・地図 北条早雲が築城し北条征伐の際には城主北条氏勝が降伏・開城した玉縄城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
玉縄城

【玉縄城の説明】
玉縄城は神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻にあった平山城である。
永正10年(1513年)、北条早雲(伊勢盛時)により築かれ城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だったので水軍を統括する重要な拠点だった。

玉縄城/アクセス・場所・地図 北条早雲が築城し北条征伐の際には城主北条氏勝が降伏・開城した玉縄城【お城特集 日本の歴史】

早雲は小田原城の「大森藤頼」を調略をもって降し、西相模を押さえた。その後、東相模の三浦氏を攻撃する拠点として玉縄城を築城した。

初代城主には早雲の二男「氏時」がなり、その後氏時が死去すると子がいなかったため早雲の嫡男氏綱の子「為昌」が城主となる。しかし、為昌は急逝しその後を氏綱の婿養子「綱成」が引き継ぎ、以降「氏繁」、氏繁の嫡男「氏舜」、その弟「氏勝」と4代にわたりこの地を治めた。

玉縄城/アクセス・場所・地図 北条早雲が築城し北条征伐の際には城主北条氏勝が降伏・開城した玉縄城【お城特集 日本の歴史】

玉縄城は堅城として知られ、安房の里見氏や上杉謙信、武田信玄などの攻撃を幾度も退けた。天正18年(1590年)の小田原征伐では城主「北条氏勝」は豊臣方の徳川家康に降り、降伏開城した。

その後「氏勝」は徳川家の家臣として戦国期を生き延びた。徳川家康が天下を統一すると、家康政権下においても「玉縄城」は重要視され、家康側近の「本多正信」が城主に任命され、その後は一族の長沢松平氏の居城となった。

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しかし、元禄16年(1703年)長沢松平氏が上総国「大多喜藩」へ転封になると玉縄城は廃城となった。現在の城跡は学校の敷地となっており城の遺構はほとんど破却された。

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一部土塁などが残るが学校敷地のため自由に見学することは出来ない。






【玉縄城・場所・アクセス】
〒689-0733 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石

【玉縄城地図】



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