仙台藩/伊達家62万石:伊達義邦 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主となった仙台藩【幕末維新写真館】

仙台藩/場所・アクセス・地図 伊達家62万石:伊達義邦 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主となった仙台藩【幕末維新写真館】

【藩名】
仙台藩

【説明】
「戊辰戦争」では「奥羽越列藩同盟」を結成し、盟主となった。仙台藩は当時、日本有数の兵力を有していたものの、イギリスから大量に最新型の銃器を購入していた薩長軍と比べると、銃器の保有数や銃器自体の性能が圧倒的に劣っていた。

仙台藩/伊達家62万石:伊達義邦【幕末維新写真館】

仙台藩は東北地方の列藩会議を主宰し、奥羽鎮撫総督府に対して会津藩の赦免を懇願したが奥羽鎮撫総督府下参謀「世良修蔵(長州藩)」によって握りつぶされると、仙台藩士「姉歯武之進」らが世良を殺害した。その後は、奥羽鎮撫総督府軍を撃破して総督「九条道隆」や参謀「醍醐忠敬」らの身柄を確保して仙台城下に移した。これと呼応して、会津藩が新政府軍に掌握されていた「白河城」を攻略した。

仙台藩/伊達家62万石:伊達義邦【幕末維新写真館】

上野の彰義隊を撃破し、北関東の旧幕府脱走軍を破った新政府軍は次第に北上し、ついに奥羽の関門白河城へと侵攻した。白河の関門は奥羽の玄関口とも言うべき重要な地で、奥羽越列藩同盟軍はここに軍を集中させて守備についた。

仙台藩/伊達家62万石:伊達義邦【幕末維新写真館】

仙台藩兵は白河城攻防戦で会津藩と共に同盟政府の主力となり、平潟戦線においても磐城平藩と共に主力を担ったが、兵器が旧式の上、指揮も上がらずいたずらに犠牲だけが増えていった。この結果、各地の戦いで敗れ仙台へと退却する。

会津藩が若松城に籠城する一方で、仙台藩は北上する薩長軍と相馬口駒ヶ嶺付近で戦ったが、中村藩の降伏により戦線を維持できなくなると仙台藩も降伏した。敗戦後、明治政府より責任を問われ、仙台藩は62万石から28万石に減封された。

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この減封に際して仙台藩は、在郷家臣らに帰農を命じ、多くの陪臣を解雇して士族籍を与えなかった。このため「伊達邦直」「伊達邦成」兄弟をはじめとする領主たちは、自らの家臣団の救済のため私費を投じて北海道開拓のために移住を開始した。

明治2年(1869年)の「廃藩置県」により仙台藩は廃藩となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」により仙台県となる。その後は藩領の北部が岩手県、南西部が福島県、残りが宮城県となった。

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