福知山藩/朽木家3万2千石:朽木為綱 鳥羽・伏見の戦いでは参陣に遅れその後西園寺公望の山陰道鎮撫使に降った福知山藩【幕末維新写真館】

福知山藩/場所・アクセス・地図 朽木家3万2千石:朽木為綱 鳥羽・伏見の戦いでは参陣に遅れその後西園寺公望の山陰道鎮撫使に降った福知山藩【幕末維新写真館】

【藩名】
福知山藩

【説明】
「関ヶ原の戦い」で東軍に与した「有馬豊氏」は本戦で後ろ揃えを務めたことで、遠江横須賀3万石から福知山6万石に加増移封されて福知山藩が立藩した。慶長7年(1602年)に豊氏の父「有馬則頼」が死去すると、豊氏は父が摂津三田に知行していた2万石も併せて相続することとなり、福知山で都合8万石の大名となった。

福知山藩/場所・アクセス・地図 朽木家3万2千石:朽木為綱 鳥羽・伏見の戦いでは参陣に遅れその後西園寺公望の山陰道鎮撫使に降った福知山藩【幕末維新写真館】

その後、「大坂の陣」においても徳川家康に与して武功を挙げたため、元和6年(1620年)閏12月には20万石に加増の上で筑後久留米藩に移封された。その後は福知山の地を伏見奉行の「小堀政一」がしばらく統治を行なう。元和7年(1621年)8月、丹波亀山藩から「岡部長盛」が5万石で入封するが、寛永元年(1624年)9月に美濃大垣藩に移される。

福知山藩/場所・アクセス・地図 朽木家3万2千石:朽木為綱 鳥羽・伏見の戦いでは参陣に遅れその後西園寺公望の山陰道鎮撫使に降った福知山藩【幕末維新写真館】

替わって摂津中島藩から「稲葉紀通」が4万5700石で入封するが、慶安元年(1648年)8月に改易となった。その後、慶安2年(1649年)2月28日には三河刈谷藩から「松平忠房」が4万5900石で入封する。この松平氏も寛文9年(1669年)6月8日に肥前島原藩に7万石で加増移封となり、替わって常陸土浦藩から「朽木稙昌」が3万2000石で入封し、以後は朽木氏13代の支配で藩政が安定した。

福知山藩/場所・アクセス・地図 朽木家3万2千石:朽木為綱 鳥羽・伏見の戦いでは参陣に遅れその後西園寺公望の山陰道鎮撫使に降った福知山藩【幕末維新写真館】

慶応3年(1867年)12月13日、藩士を京都を派遣し、幕命により旧京都所司代邸の警備にあたる。慶応4年(1868年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」では旧幕府軍に合流しようとしたものの、幕府軍が敗退したため引き返した。そして、「西園寺公望」率いる山陰道鎮撫使に恭順した。2月6日、為綱は上洛して改めて恭順の姿勢を示し、新政府から北越出兵、丹波・丹後などの代官地・幕府領などの接収を命じられた。

福知山藩/場所・アクセス・地図 朽木家3万2千石:朽木為綱 鳥羽・伏見の戦いでは参陣に遅れその後西園寺公望の山陰道鎮撫使に降った福知山藩【幕末維新写真館】

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で福知山藩は廃藩となり、福知山県となる。同年10月2日、豊岡県となり、明治9年(1876年)8月21日には京都府に編入されることとなった。

【場所・アクセス・地図】






関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


ページ上部へ戻る