鳥羽城:九鬼嘉隆が志摩の国を統一し築城した戦国屈指の海城 鳥羽城

鳥羽城:九鬼嘉隆が志摩の国を統一し築城した戦国屈指の海城 鳥羽城

【城名】
鳥羽城

【城の説明】
鳥羽城は、現在の三重県鳥羽市鳥羽にあった海城である。水軍に特化した城で、大手門が海側へ突出して築かれたため「鳥羽の浮城」とも呼ばれていた。

鳥羽城:九鬼嘉隆が志摩の国を統一し築城した戦国屈指の海城 鳥羽城【お城特集 日本の歴史】

元々鳥羽湾に突出した部分には中世、橘氏の居館があった。戦国時代の志摩の国はいくつもの豪族が存在していたが織田信長の力を背景にした「九鬼嘉隆」によって志摩国は統一された。文禄3年(1594年)豊臣秀吉の時代になると嘉隆は橘氏の居館跡地に鳥羽城を築城した。現在の鳥羽水族館の裏手にある低い丘が鳥羽城跡である。

鳥羽城:九鬼嘉隆が志摩の国を統一し築城した戦国屈指の海城 鳥羽城【お城特集 日本の歴史】

江戸時代の鳥羽城の城主はめまぐるしく代わった。九鬼家・内藤家・天領・土井家・大給(松平)家・板倉家・戸田(松平)と代わり、享保10年(1725年)稲垣昭賢が下野国烏山藩から3万石で入封し、ようやく藩主家が定着した。その後、稲垣氏のまま幕末を迎えている。

鳥羽・伏見の戦いの際に幕府軍として藩兵が戦闘に参加し、藩主の稲垣長行江戸滞在中であったため新政府軍による討伐の可能性が浮上するが、藩主長行の謹慎と・部隊長らの永禁錮、軍資金1万5千両などを引換に宥免された。

鳥羽城:九鬼嘉隆が志摩の国を統一し築城した戦国屈指の海城 鳥羽城【お城特集 日本の歴史】

明治4年(1871年)の廃藩置県で鳥羽藩は廃藩となって鳥羽県となり、最終的には三重県に編入される。昭和40年(1965年)12月には、三重県史跡に指定されている。

鳥羽城:九鬼嘉隆が志摩の国を統一し築城した戦国屈指の海城 鳥羽城【お城特集 日本の歴史】

平成25年(2013年)に三重県鳥羽市立図書館で、天守の具体的な寸法が書かれた古文書が保管されている事が分かった。その古文書により鳥羽城には天守が設けられていたことがわかった。

目次

大手門を海に向けた「海城」

鳥羽城の最大の特徴は、大手門を海側に開いていたことである。ふつう城の正面は陸に向く。ところがこの城は、船が直接乗りつける水門を大手としていた。四方を海に囲まれた立地とあわせ、全国的にも珍しい「海城」だったのである。水軍の将が築いた城であることが、その一点に凝縮されている。

鳥羽城跡(三重県史跡)の案内板

城跡の案内板。大手門(水門)を海に向けた海城だったことを伝える

廃藩置県時の記録によれば、城の総面積は三万二千二百八十坪、外曲輪の惣堀千四百六十六間、水門四か所、櫓は三重一・二重五・一重七の計十三か所を数えた。天守は延宝八年(1680)の財産目録に「天守三重 内壱重、五間に六間」とあり、高さ約十九・五メートル、屋根の構造から古い形式の望楼型だったと推定されている。

鳥羽城の天守跡の案内板

天守跡の案内板。三重の望楼型天守だったと推定されている

九鬼嘉隆 — 鉄甲船の水軍大将

城を築いたのは文禄三年(1594)、九鬼嘉隆である。九鬼氏は南北朝の動乱以降に志摩へ勢力を伸ばし、嘉隆の代で織田信長に仕えた。長島の一向一揆、石山本願寺との戦いで水軍を率いて戦功を重ね、なかでも天正六年の第二次木津川口の戦いでは、当時としては異例の大型鉄甲船六隻を率いて毛利水軍を打ち破る。この功で伊勢・志摩のうち三万五千石を賜った。

信長の死後は秀吉に仕え、大型軍船「日本丸」を建造。文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも日本丸を旗艦とする大船団を率いて参陣した。

その最期は痛ましい。慶長五年(1600)の関ヶ原で、嘉隆は西軍、家督を継いだ子の守隆は東軍につき、父子で敵味方に分かれた。西軍敗北後、嘉隆は答志島へ逃れる。守隆は決死の助命嘆願を行い、それは聞き届けられたのだが——その知らせが届く前に、嘉隆は答志島の洞泉庵で腹を切った。島にはいま、嘉隆の首塚と胴塚が残る。

「水軍の将 九鬼嘉隆」の案内板

九鬼嘉隆の生涯を伝える案内板。鉄甲船と日本丸、そして答志島での最期まで

九鬼家のその後と鳥羽城

守隆はのちに五万五千石となるが、その死後、久隆と隆季のあいだで家督争いが起きた。幕府の裁定により久隆は摂津三田、隆季は丹波綾部へ国替えとなり、九鬼家は二分されて鳥羽の地を去る。海の武士団だった一族が、内陸の大名に作り変えられたのである。

寛永十年(1633)に譜代大名の内藤忠重が入り、二ノ丸・三ノ丸を構えて近世城郭として整えた。以後、幕末まで城の姿は大きく変わっていない。内藤氏三代の後は殺傷事件で領地没収となり、幕府直轄領を経て土井・松平(大給)・板倉・松平(戸田)と城主が目まぐるしく替わり、最後は稲垣氏が治めた。

その間、城は災害に苦しみ続ける。宝永四年(1707)の大地震では津波で屋敷や櫓が流失し、石垣や城壁が大破。寛政四年(1792)と安政元年(1854)にも暴風雨や津波の被害を受けた。海に開いた城の宿命である。

鳥羽城 段状に築かれた石垣

斜面を段々に築いた石垣。海城の姿をいまに伝える

本丸の大井戸と、いまの城跡

明治の廃藩置県で建物は「無用の長物」として取り壊され、堀は埋め立てられた。跡地には旧鳥羽小学校、旧鳥羽幼稚園、市役所、市民文化会館が建ち、三ノ丸跡には造船所ができた。それでも山側には当時の地形がおおむね残り、石垣は相橋と本丸西側に見ることができる。城跡からは九鬼氏・内藤氏・稲垣氏それぞれの家紋が入った瓦が採集されている。

本丸跡には大井戸(雄井戸)の跡がある。昭和四年の小学校建設で運動場になった際に蓋をされ長く眠っていたが、平成二十五年(2013)の発掘調査で開封された。直径は約二・七メートル、岩盤を刳り抜いた素掘りで、深さは当初約四十五メートルあったという。この井戸には龍が棲み、相島(現在のミキモト真珠島)まで通じているという伝承が残る。

鳥羽城 大井戸跡(雄井戸)

本丸跡の大井戸。直径約2.7メートル、当初の深さは約45メートルと伝わる

鳥羽城の現地写真

【鳥羽城・場所・アクセス】
〒517-0011 三重県鳥羽市鳥羽3-1

【鳥羽城地図】

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