真壁城とは
真壁城は、筑波山地の西麓に築かれた中世の平城である。城主は常陸平氏の流れをくむ真壁氏。佐竹義重の重臣で「鬼真壁」と呼ばれた真壁氏幹の居城として知られる。
特筆すべきはその広さで、国指定史跡の範囲だけで約12万5千平方メートル、館や大手筋など周辺を含めた遺構全体では東西約900メートル、南北約700メートル、総面積は約29万平方メートルに達する。山に籠もらず、平地に大きく広がった城である。国指定史跡(平成6年10月28日指定)。

「国指定史跡 真壁城跡」の石柱(茨城県桜川市真壁町古城)
常陸平氏の系譜 ─ 真壁氏の四百年
真壁氏は、平安末期から中世にかけてこの一帯を治めた一族である。常陸平氏(常陸大掾氏)の流れをくみ、真壁を名字の地とした。城の起源については伝承もあるが、桜川市教育委員会の発掘調査では、現在見られる城が築かれた年代を永禄年間(1558〜1570)と推定している。真壁久幹の代にあたる。
戦国期の常陸は、佐竹氏、小田氏、後北条氏、そして北の伊達までが絡む複雑な戦場だった。真壁氏は佐竹方に属し、小田氏治との抗争の最前線に立ち続けている。

本丸に立つ案内板。本丸・二の丸・中城・外曲輪が同心円状に広がる構造が図示されている
終わりは戦ではなく、国替えで訪れた。慶長七年(1602)、佐竹氏が秋田へ移されると真壁氏もこれに従い、出羽の角館へ移る。真壁城は廃城となった。四百年以上この地にあった家が、関ヶ原の後始末とともに常陸を去ったのである。
鬼真壁と呼ばれた男
真壁氏幹は久幹の子で、戦国期の真壁氏を代表する武将である。「鬼真壁」の異名で呼ばれ、樫の丸太を削った八角棒を振り回して敵を打ち倒したという逸話が伝わる。
一方で氏幹は、剣聖・塚原卜伝に学んだ剣客でもあった。霞流(真壁流)と呼ばれる流派を興したとされる。豪傑の代名詞のように語られる人物が、同時に体系立った武芸の使い手だったという点は、勝家の「瓶割り柴田」と同じく、後世の脚色と実像の関係を考えさせる。
広い。そして低い
実際に歩くと、真壁城の印象は「広い」に尽きる。本丸を中心に二の丸、中城、外曲輪が同心円状に取り巻き、その外側に館(だて)や北戸張が続く。本丸だけで約1万5千6百平方メートルある。

本丸を囲む土塁。背後に筑波山地の稜線が連なる
城の周囲は幅およそ20メートルの堀に囲まれていた。現在その堀の多くは水田になっている。部分的に湿地を含み、かつては急峻な土塁を伴っていた。

現在も残る土塁。堀だった部分は水田に変わり、土の高まりだけが往時を伝える
山城なら高さで守るところを、この城は広さと湿地と土の厚みで守った。鉄砲が戦場を変えていく十六世紀後半、周囲の湿地と大きな堀・土塁は、高さとは別の意味で有効だったはずである。近江の小谷城が尾根を折り曲げて守ったのとは、まったく違う発想の城だ。
庭園が出た城
本丸は昭和五十六年(1981)に発掘され、土器や陶器、多数の柱穴、石列遺構、硯、武具などが出土した。いずれも十五〜十六世紀のものである。本丸の発掘はこの一度きりで、その後は行われていない。
より興味深いのは外曲輪と中城での成果だろう。門や道路、土塁とともに中世の庭園が検出された。硯が出ていることとあわせると、この城が軍事施設であると同時に、書き、もてなし、季節を眺める場所でもあったことが分かる。
鬼と呼ばれた武将の城に庭園がある。矛盾ではなく、これが中世の領主の城館というものだったのだろう。城は戦うための箱である前に、領地を治め、人を迎える場所だった。

昭和十年に真壁町が建てた「史蹟 眞壁城址」の石柱。国史跡指定より六十年近く早い
真壁から笠間へ、そして赤穂へ
真壁氏が去ったあと、この地はもう一度歴史の表舞台に触れる。慶長十一年(1606)、豊臣政権で五奉行を務めた浅野長政が隠居領として常陸真壁・筑波両郡のうち五万石を与えられ、真壁藩が立藩したのである。
長政の死後、その遺領五万石を継いだのが三男の長重だった。長重は下野真岡二万石の藩主だったが、加増転封の話を断ってまで父の遺領である真壁を望んだと伝えられる。そして元和八年(1622)十二月、真壁藩五万三千石と同じ石高で笠間へ移る。このとき真壁領の一部も笠間藩領となった。
浅野家はさらに正保二年(1645)に赤穂へ転じ、その五十七年後に赤穂浪士の討ち入りが起きる。真壁 → 笠間 → 赤穂という浅野家の移動をたどると、忠臣蔵の家が常陸で二十年近くを過ごしていたことが見えてくる。筆頭家老の大石家が浅野家に仕えはじめたのも、長重が真岡・真壁にいた時代である。
城は消えて、町が残った
真壁城でもう一つ見逃せないのが、城の西側に広がる城下町である。城が廃されたあとも町は生き続け、江戸から明治、大正期の見世蔵や土蔵が数多く残った。現在は桜川市真壁伝統的建造物群保存地区として保存されている。
越前の一乗谷は、城下町ごと焼かれて地中に埋もれ、そのおかげで遺跡として完全な形で残った。真壁はその逆である。城は失われたが町は住み継がれ、建物を入れ替えながら現役の町として残った。同じ「中世の城下町が今に伝わる」でも、残り方が正反対である。
城跡の土塁を歩き、そのまま西へ下って町並みを見て回る。真壁を訪ねる楽しみは、この二つが地続きになっていることにある。
真壁城の現地写真





真壁城・場所・アクセス
〒300-4408 茨城県桜川市真壁町古城377ほか
JR水戸線「岩瀬駅」または「下館駅」からバス。北関東自動車道 桜川筑西インターから車で約20分。城跡の一部は運動公園として整備され、駐車場がある。
遺構は広範囲にわたるため、本丸の案内板で全体像をつかんでから歩き出すとよい。城跡から西へ進むと、真壁の町並みが続いている。
