徳川家康は薬を自分で作っていたのか|内藤剛志が演じる家康の「英気が出る薬」 ─ 『和剤局方』と八之字・万病円、侍医を流した最期|ドラマ『真田十勇士』第1話

駿府城の書院で薬研を使って生薬をすりつぶす家康のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 徳川家康は、戦国武将の中でもとくに薬に詳しかった人物です。中国の医書『和剤局方』などを読み、自分で生薬をすりつぶして薬を作っていたと伝わります
  • 静岡の久能山東照宮には、家康が使ったとされる薬研や乳鉢、薬を入れた壺が伝わり、駿府には薬草を育てる御薬園もありました
  • 家康秘伝の薬として「八之字」の名が知られ、家族や家臣に薬を与えた話も残ります。ただし、どこまで自分で調合したのかを細かく示す同時代の記録は多くありません
  • 最期の病では、侍医の片山宗哲の意見を聞かずに自分の見立てで「万病円」を飲み続け、反対した宗哲は信濃へ流されたと伝わります。家康は元和2年(1616)に75歳で亡くなりました
  • ドラマ『真田十勇士』第1話では、家康(内藤剛志さん)が使いの男に「英気が出る薬」を与え、男がその毒で命を落としました。家康が薬で人を殺めたという記録はなく、ドラマの創作です

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、豊臣の使いを装って九度山の幸村を誘い出そうとした男に、家康(内藤剛志さん)が「英気が出る薬」を与える場面がありました。男はその薬で命を落とし、家康の冷酷さを印象づけます。ドラマの家康が薬を手にしていたのには、史実の家康が「薬好き」として知られていたことが背景にありそうです。この記事では、家康がどれほど薬に詳しかったのか、どんな薬を作り、最期にどんな薬を飲んでいたのかをたどります。

目次

家康は本当に自分で薬を作っていたのか

徳川家康は、健康にたいへん気を配った武将として知られています。粗食を心がけ、鷹狩りで体を動かし、そして病気になると医者任せにせず、自分で薬を選んで飲みました。家康は中国・宋の時代にまとめられた処方集『太平恵民和剤局方』(和剤局方)を愛読し、そこに載っている薬を参考に、自分で生薬をすりつぶして薬を作っていたと伝わります。

駿府城の書院で薬研を使って生薬をすりつぶす家康のイメージ(イラスト)
駿府城で薬研を使って生薬を粉にする家康(イメージ)

家康の薬好きを今に伝えるのが、静岡市の久能山東照宮に残る遺品です。家康の死後、久能山に葬られた家康の身の回りの品の中には、生薬を粉にする薬研や乳鉢、薬を入れておいた壺、家康が参考にしたと考えられる医書などが含まれています。駿府城の近くと久能山のふもとには、薬草を育てる御薬園も設けられていました(駿府城跡:家康が三度暮らした城)。

久能山東照宮の楼門と石段
家康が最初に葬られた久能山東照宮(静岡市)。家康が使ったとされる薬研や乳鉢などが伝わる

家康が作った薬 ─ 「八之字」と「万病円」

家康秘伝の薬として名前が知られているのが「八之字」です。江戸時代の医書では、『和剤局方』に載る「無比山薬円」と同じ処方とされ、十二種類ほどの生薬を粉にして蜜で練り固めた丸薬でした。体の衰えを補う、いわば滋養強壮の薬です。ほかにも家康は、自分で調合した薬を家族や家臣に与えたと伝わり、病気の家臣を気づかって薬を届けた話も残っています。

家康の名と深く結びついたもう一つの薬が「万病円」です。名前のとおり、さまざまな病に効くとされた丸薬で、家康は最期の病のときにこの薬を飲み続けました。ただ、家康が薬を作っていたことは確かでも、どの薬をどこまで自分で調合したのかを細かく示す同時代の記録は多くありません。「八之字」なども、のちの時代の本で家康の薬として紹介されたもので、言い伝えの部分も含んでいると考えるのがよいでしょう。

薬・品 どんなものか
『和剤局方』 中国・宋の官製の処方集。家康が愛読し、薬作りの手本にしたとされる
八之字 家康秘伝とされる丸薬。『和剤局方』の無比山薬円と同じ処方とされる滋養の薬
万病円 多くの病に効くとされた丸薬。家康が最期の病で飲み続けた
薬研・乳鉢・薬壺 久能山東照宮に伝わる、家康が使ったとされる道具
御薬園 駿府城の近くと久能山のふもとに置かれた薬草園

家康の最期と「万病円」 ─ 侍医の忠告を退けて

元和2年(1616)1月、家康は駿河の田中で鷹狩りをしている最中に体調を崩しました。この日に食べた鯛の天ぷらにあたったという話がよく知られていますが、その後3か月ほどかけて病状が進んだことから、今日では胃がんなど腹の病だったとする見方が有力です(戦国武将の病気と死因)。

このとき家康は、自分の病を腹の虫によるものと見立て、万病円を飲み続けたといわれます。侍医の片山宗哲は、その薬は体に合わないと何度も止めましたが、家康は聞き入れません。それどころか、宗哲は家康の怒りを買って信濃国の高島(いまの長野県諏訪市)へ流されたと伝わります。薬に詳しい自信が、かえって医者の意見を退けることにつながったのかもしれません。家康は同じ年の4月17日、駿府城で75歳で亡くなりました。

▽ よく語られる話
家康は鯛の天ぷらを食べすぎて、食あたりで亡くなった。
▼ 史実ではこうです
鷹狩りの最中に鯛の料理を食べたあと体調を崩したという話は伝わりますが、家康が亡くなったのはそれから3か月ほどあとです。急な食あたりにしては経過が長く、腹にしこりがあったとする記録などから、胃がんなどの病だったとする説が有力です。最期の数か月、家康は医者の忠告よりも自分の見立てを信じ、万病円を飲み続けました。

家康が薬で人を殺めたことはあるのか

ドラマ第1話では、家康が使いの男に「英気が出る薬」と言って薬を与え、男がその毒で亡くなりました。薬に詳しい家康が、その知識を使って邪魔者を消す ─ 印象的な場面ですが、史実の家康が薬を使って人を殺めたという確かな記録はありません。

戦国時代から江戸時代のはじめにかけては、大名が急に亡くなるたびに「毒を盛られたのでは」といううわさが立ちました。家康についても、加藤清正や浅野幸長といった豊臣家と近い大名が相次いで亡くなったことから、家康が毒殺したという俗説が後の時代に語られています。けれども、いずれも確かな根拠はなく、病死と考えられています。ドラマの「英気が出る薬」は、薬好きの家康という史実の姿を、冷酷な大御所の描写に生かした創作といえるでしょう(九度山の真田父子は誰に見張られていたのか)。

▽ よく語られる話
薬に詳しい家康は、豊臣家に近い大名たちに毒を盛り、大坂の陣の前に豊臣方の力をそいでいった。
▼ 史実ではこうです
加藤清正や浅野幸長らの死を家康の毒殺とする話は、後の時代の俗説で、同時代の確かな史料には見えません。当時は大名が急死すると毒殺のうわさが立つのはよくあることでした。家康が薬に通じていたことは確かですが、それを人を殺めるために使ったという記録はありません。

なぜ家康はそこまで薬にこだわったのか

家康が健康と薬にこだわった理由としてよく挙げられるのは、「長生きした者が最後に勝つ」という戦国の現実です。織田信長は49歳で本能寺に倒れ、豊臣秀吉も62歳で亡くなりました。家康は秀吉の死後に天下を握り、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたのは70歳を過ぎてからのことです。自分の体を守ることは、そのまま天下を守ることでもありました(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

家康のまわりには、薬や医学に通じた人びとも集まっていました。儒学者の林羅山は、長崎で手に入れた中国の本草書『本草綱目』を家康に献上したと伝わり、家康の関心の広さがうかがえます。家康の薬への関心は、のちに江戸幕府が江戸の小石川などに御薬園を設け、薬草の栽培や研究を進めていく流れにもつながっていきました。

ドラマ『真田十勇士』の家康と薬

ドラマ第1話の家康は、将軍職を秀忠に譲ったうえで豊臣家に天下が戻る道を断ち、金地院崇伝(佐野史郎さん)の知恵を借りて方広寺の鐘銘を問題にし、九度山の幸村を罠にかけようとする、冷徹な大御所として描かれました(方広寺鐘銘事件とは)。使いの男に薬を与えて口を封じる場面も、その冷たさを示すものです。

史実の家康は、薬を人を殺めるためではなく、自分や家族、家臣の体を守るために使っていました。その家康が、最後は自分の薬の知識を過信して医者の忠告を退けたというのは、少し皮肉な話でもあります。ドラマの家康が薬をどう使っていくのか、そして幸村と十勇士がその家康の首をどう狙うのかが、これからの見どころになりそうです(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 徳川家康は本当に自分で薬を作っていたのですか?
A. 中国の処方集『和剤局方』などを参考に、自分で生薬をすりつぶして薬を作っていたと伝わります。久能山東照宮には、家康が使ったとされる薬研や乳鉢が残っています。

Q. 家康が作った薬にはどんなものがありますか?
A. 家康秘伝とされる「八之字」が知られています。『和剤局方』の無比山薬円と同じ処方とされる滋養の薬です。また最期の病では「万病円」を飲み続けました。

Q. 家康の死因は何ですか?
A. 鯛の天ぷらによる食あたりという話が有名ですが、発病から3か月ほどかけて亡くなっていることなどから、胃がんなど腹の病だったとする説が有力です。

Q. 片山宗哲はなぜ流されたのですか?
A. 家康の侍医だった宗哲は、家康が自分の見立てで万病円を飲み続けるのを止めようとしましたが、それが家康の怒りを買い、信濃国の高島に流されたと伝わります。

Q. ドラマで家康が薬で使いを殺したのは史実ですか?
A. ドラマの創作です。家康が薬で人を殺めたという確かな記録はありません。家康役は内藤剛志さんです。

まとめ

徳川家康は、『和剤局方』を読み、薬研で生薬をすりつぶして薬を作るほどの薬好きでした。久能山東照宮には薬作りの道具が残り、駿府には御薬園もありました。その一方で、最期の病では自分の見立てを信じて万病円を飲み続け、止めた侍医を遠ざけたとも伝わります。ドラマ『真田十勇士』の「英気が出る薬」は、こうした薬好きの家康の姿を、冷酷な大御所の描写に生かした創作です。長生きこそが天下を守る道と考えた家康にとって、薬は命綱のような存在だったのかもしれません。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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