於大の方とは|家康の母は3歳のわが子となぜ別れたのか ─ 水野家の寝返り、久松家への再嫁、伝通院、そして大政所との対比

於大の方(おだいのかた)は、徳川家康の生みの母です。家康がわずか3歳のとき、実家の水野家が織田方についたため夫の松平広忠に離縁され、わが子と引き離されました。その後は尾張の久松俊勝に再嫁し、家康が大名になると再び息子のそばに迎えられて、慶長7年(1602)に75歳で亡くなります。秀吉が母の大政所を人質として家康のもとへ送った天正14年(1586)、家康の母・於大はどう見ていたのか。二人の「天下人の母」を比べながら、その生涯をたどります。

この記事のポイント
  • 於大は刈谷の水野忠政の娘。14歳で岡崎の松平広忠に嫁ぎ、翌年に家康を産んだ
  • 家康3歳のとき、兄・水野信元が織田についたため離縁。母と子は引き離された
  • 久松俊勝に再嫁して3男3女を産み、その子らは家康から松平の姓を与えられた
  • 家康の母として晩年まで生き、伏見城で亡くなる。法名の伝通院は江戸小石川の寺の名になった
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刈谷の水野家から岡崎へ ─ 14歳の花嫁

於大は享禄元年(1528)、三河の刈谷を本拠とする水野忠政の娘として生まれました。水野家は、尾張の織田と駿河の今川にはさまれた土地の国衆です。天文10年(1541)、14歳の於大は岡崎の松平広忠に嫁ぎ、翌年の暮れに竹千代、のちの家康を産みました。刈谷城については刈谷城で書いています。

於大の方の実家・水野氏の刈谷城跡(愛知県刈谷市)
於大の方の実家・水野氏の刈谷城跡(愛知県刈谷市)

家康3歳で離縁 ─ 引き裂かれた母と子

天文12年、父の忠政が亡くなり、兄の水野信元が跡を継ぎます。信元は今川から離れて織田につきました。今川の庇護を受けていた松平広忠は、織田方となった水野家の娘を妻にしておくことができず、於大を離縁して刈谷へ帰します。家康はまだ3歳でした。

その後、家康は6歳で今川へ人質に出されるはずが織田に奪われ、8歳からは駿府で今川の人質として育ちます。母と離れ、人質として過ごした少年時代は、家康の忍耐強さのもとになったともいわれます(家康の我慢強さはどこから来たのか)。於大は離れて暮らすわが子に、衣服や菓子を送り続けたと伝わります。

久松俊勝への再嫁と、「松平」を名のった異父弟たち

於大はのちに、尾張の阿古居(阿久比)の久松俊勝に再嫁し、3人の息子と3人の娘を産みました。桶狭間の戦いのあと、今川から独立した家康は母と再会し、母の再婚先の家族を大切にします。異父弟の康元・勝俊・定勝には松平の姓を与え、一門として取り立てました。この家系は久松松平家と呼ばれ、江戸時代には伊予松山藩などの大名となって続きます。

年 於大の年齢 できごと
享禄元年(1528) 1歳 刈谷の水野忠政の娘として生まれる
天文10年(1541) 14歳 岡崎の松平広忠に嫁ぐ
天文11年(1542) 15歳 竹千代(家康)を産む
天文13年(1544) 17歳 兄・水野信元が織田につき、離縁される
のち ─ 阿古居の久松俊勝に再嫁し、3男3女を産む
永禄3年(1560)以後 33歳〜 独立した家康と再会し、家康の庇護を受ける
慶長7年(1602) 75歳 伏見城で亡くなる

二人の「天下人の母」 ─ 於大と大政所

天正14年、秀吉は母の大政所を人質として岡崎へ送り、家康を上洛させました。秀吉の母は、天下人である息子のために、自ら敵地へ向かったのです(大政所(なか)とは)。

一方の於大は、家が生き残るために、幼いわが子と引き離された母でした。同じ戦国の母でも、子との別れ方はまったく違います。大政所は息子の天下のために人質になり、於大は兄の家のために息子を手放した。家康が大政所を丁重にもてなしたと伝わるのは、引き離された母の痛みを、自分の母を通して知っていたからかもしれません。大政所の警固や送り届けについては井伊直政と大政所で書いています。

▽ よく語られる話
家康は幼くして母を失い、母の顔を知らずに育った。
▼ 史実ではこうです
於大は離縁されて家康と離れましたが、亡くなったわけではありません。のちに家康は母と再会し、母と異父弟たちを手厚く迎えました。於大は家康が天下人になる直前まで生きています。
刈谷城跡。於大は離縁されてこの地に戻された
刈谷城跡。於大は離縁されてこの地に戻された

晩年と伝通院

家康が関ヶ原に勝って天下の実権を握ったあと、慶長7年、於大は京へ上り、その年の8月に伏見城で亡くなりました。75歳でした。家康が征夷大将軍となる半年ほど前のことです。

於大の法名は伝通院といいます。江戸小石川には、於大を葬った寺が建てられ、法名をとって伝通院と呼ばれました。のちに家康の孫・千姫もこの寺に葬られています(千姫はどうやって大坂城から逃げたのか)。家康の妻や子どもについては徳川家康の妻たち一覧と徳川家康の子ども一覧をどうぞ。

▷ 筆者の考え ─ 「母と引き離された子」が天下を取った

家康は3歳で母と別れ、人質として育ちました。それでも母を恨むことなく、再会してからは母と異父弟たちを大事にしました。筆者は、家康の我慢強さと身内を大切にする姿勢の両方に、この母との別れが影を落としていると考えています。そして天正14年、秀吉の母が自分のもとへ人質として来たとき、家康は自分の母の若き日を思い出したのではないでしょうか。家康の野望については「家康の野望」とは何か?で予想しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)

第41回では、秀吉の母・大政所が岡崎へ送られる場面が描かれる見込みです。家康が大政所を迎えるとき、自分の母・於大のことを口にする場面があれば、二人の母を対比する印象的な場面になりそうです。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。

よくある質問

Q. 於大の方は誰の娘ですか?
A. 三河の刈谷を本拠とした水野忠政の娘です。兄の水野信元は織田信長と結んだ武将として知られます。

Q. 於大の方はなぜ離縁されたのですか?
A. 兄の水野信元が今川を離れて織田についたため、今川方だった夫の松平広忠が、水野家の娘を妻にしておけなくなったからです。

Q. 伝通院とはどういう意味ですか?
A. 於大の方の法名です。江戸小石川の於大を葬った寺も、この法名から伝通院と呼ばれました。

まとめ

於大の方は、刈谷の水野家から岡崎の松平広忠に嫁いで家康を産み、家康が3歳のとき実家の寝返りで離縁されました。久松俊勝に再嫁してからも家康を気にかけ、のちに息子と再会して、異父弟たちは松平の名を与えられます。慶長7年に伏見城で亡くなり、法名の伝通院は江戸の寺の名として残りました。息子のために人質となった大政所と、家のために息子と別れた於大。二人の母の姿は、戦国の母の生き方の両面を映しています。

あわせて読みたい:豊臣秀吉と徳川家康の違い

参考:『徳川実紀』、刈谷市・阿久比町の史跡解説、伝通院の寺伝

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