本多正信はなぜ家康の右腕になれたのか|三河一向一揆で背き、諸国を渡り歩いて帰参 ─ 戻らなかった石川数正との違い

玉縄城/アクセス・場所・地図 北条早雲が築城し北条征伐の際には城主北条氏勝が降伏・開城した玉縄城

本多正信は、若いころ三河一向一揆で家康に背き、三河を出て諸国を渡り歩いた家臣です。それでものちに徳川家へ戻り、家康の第一の相談相手となって、江戸幕府の土台作りを支えました。正信が戻れたのは、大久保忠世のとりなしと、背いた家臣を許して使う家康の器量があったからです。同じように主家を離れながら、戻らずに秀吉のもとで生きた石川数正とは、まったく逆の道でした。

この記事のポイント
  • 正信は永禄6年(1563)の三河一向一揆で一揆側につき、家康に敵対した
  • 一揆のあと三河を出て、加賀などを渡り歩いたと伝わる。帰参の時期は諸説あり、遅くとも本能寺の変のころまでには戻っていた
  • 帰参をとりなしたのは大久保忠世。正信は武功ではなく知恵で家康を支える側近になった
  • 家康が亡くなった2か月後に正信も亡くなる。主家を去ったまま戻らなかった石川数正とは逆の生涯だった
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三河一向一揆 ─ 家康に背いた若き日

本多正信は天文7年(1538)、三河に生まれました。家康より4つ年上です。永禄6年、三河で一向宗の門徒たちが一揆を起こすと、正信は弟の正重とともに一揆の側につきました。家康の家臣のうち、一向宗を信じる者の多くが一揆に加わり、家臣団は真っ二つに割れます。

翌年、一揆は家康に鎮められました。家康は背いた家臣の多くを許して迎え入れましたが、正信は三河を出ていきます。この一揆の経験が家康の我慢強さを育てたという見方は家康の我慢強さはどこから来たのかで紹介しています。

諸国を渡り歩いた空白の年月

三河を出たあとの正信の足取りは、はっきりしません。加賀に住んで一向一揆の側に身を置いたとも、京へ出たとも伝わります。大和の松永久秀に仕えたという話もありますが、確かな史料で確かめることはできません。

帰参の時期についても諸説あります。早ければ元亀元年(1570)の姉川の戦いのころ、遅くとも天正10年(1582)の本能寺の変の少し前には、家康のもとへ戻っていたとみられます。帰参をとりなしたのは、家康の重臣・大久保忠世でした。大久保忠世については徳川十六神将とはでも紹介しています。

▽ よく語られる話
本多正信は家康を裏切った不忠者で、帰参後も家臣たちから嫌われ続けた。
▼ 史実ではこうです
正信が一揆で背いたのは事実で、武功派の家臣の中には正信を快く思わない者もいたと伝わります。しかし家康は正信を深く信頼し、政治や外交の相談相手として重く用いました。

知恵で仕えた家康の右腕

戻ってきた正信は、戦場で槍をふるう武将ではなく、家康のそばで知恵を出す側近として働きました。家康と正信は、互いを深く理解した主従として「水魚の交わり」にたとえられます。家康が正信を「友」のように扱ったという逸話も残ります。

天正18年、小田原攻めのあと家康が関東へ移ると、正信は相模の玉縄で1万石(2万2千石とも)を与えられ、大名になりました。家康が関東を任された流れは秀吉はなぜ家康に関東を任せたのかで書いています。玉縄城については玉縄城をどうぞ。

本多正信が小田原攻めのあと与えられた相模の玉縄城跡(神奈川県鎌倉市)
本多正信が小田原攻めのあと与えられた相模の玉縄城跡(神奈川県鎌倉市)

慶長5年の関ヶ原の戦いでは、正信は家康の三男・秀忠の軍に付き従いました。秀忠の軍は信濃の上田城で真田昌幸に足止めされ、関ヶ原の本戦に間に合いませんでした(第一次・第二次上田合戦)。家康が江戸幕府を開くと、正信は将軍秀忠の側で政治を支え、幕府の仕組みづくりに深く関わります。

石川数正と本多正信 ─ 分かれた二つの道

家康のもとを離れた家臣として、本多正信と石川数正はよく比べられます。

本多正信 石川数正
離れた時期 永禄6年(一向一揆) 天正13年(秀吉のもとへ出奔)
離れたときの立場 若い家臣 筆頭家老の一人
その後 諸国を渡り歩き、徳川家に戻る 秀吉に仕え、豊臣の大名になる
家康との関係 第一の側近に 二度と仕えることはなかった
家の行く末 子の正純は改易、次男の政重の系統は加賀前田家の重臣として続く 子の康長の代に改易

数正は秀吉のもとで河内、ついで信濃松本の大名になりましたが、徳川家には戻りませんでした。数正のその後は石川数正のその後、家康の臣従の場に数正がいたかどうかは石川数正は家康の謁見の場にいたのかで考えています。

晩年と本多家のその後

元和2年(1616)4月、家康が駿府で亡くなると、正信は家督を子の正純に譲って隠居し、同じ年の6月に亡くなりました。家康の後を追うような最期でした。

正純は宇都宮15万石の城主になりましたが、元和8年に改易されます。宇都宮城の「釣天井」で将軍秀忠を暗殺しようとしたという話が伝わりますが、これは後世の作り話です(宇都宮城址公園)。父の正信の時代に積み上げた権勢が、子の代でねたまれたともいわれます。

正信の子・正純が城主となった宇都宮城の水堀と土塁
正信の子・正純が城主となった宇都宮城の水堀と土塁
▷ 筆者の考え ─ 背いた者を使い切った家康

正信の生涯を見ると、家康の人の使い方がよくわかります。一度は弓を引いた家臣を許し、しかも一番近い相談相手にした。家康にとって大切なのは、過去に何をしたかより、これから何をしてくれるかだったのでしょう。一方で、天下人の秀吉のもとへ去った数正は、戻る道を選びませんでした。二人の違いは、家康の器量だけでなく、離れた先と時代の違いでもあったと筆者は考えています。家康の野望を支えたのは、四天王のような武将だけでなく、正信のような知恵の家臣でもありました(「家康の野望」とは何か?)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)

『豊臣兄弟!』に本多正信が登場するかどうかは、放送前の時点ではわかりません。第41回で家康が上洛を決める場面では、反対する武功派の家臣たちとは別に、家康のそばで静かに助言する人物が描かれるかもしれません。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。

よくある質問

Q. 本多正信はなぜ家康に背いたのですか?
A. 永禄6年の三河一向一揆で、一向宗の門徒として一揆の側についたためです。家康の家臣の中には、同じように一揆に加わった者が多くいました。

Q. 本多正信はいつ徳川家に戻ったのですか?
A. 諸説あり、早ければ元亀元年ごろ、遅くとも天正10年の本能寺の変の少し前とみられます。大久保忠世がとりなしました。

Q. 本多正信と本多忠勝は親戚ですか?
A. 同じ本多の名字ですが、家系は別です。忠勝は武功、正信は知恵で家康を支えました。

まとめ

本多正信は三河一向一揆で家康に背き、三河を出て諸国を渡り歩いたのち、大久保忠世のとりなしで徳川家に戻りました。それからは家康の第一の側近として知恵で仕え、江戸幕府の土台を支えます。主家を離れたまま秀吉のもとで生きた石川数正とは、正反対の道でした。背いた者でも使い切る家康の器量が、正信という右腕を生んだのです。

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参考:『藩翰譜』、『寛政重修諸家譜』、各自治体の史跡解説

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